地に足の着いたサッカージャーナリスト小澤一郎氏が世に問いかける育成のあり方。

本書は、現在日本代表レベルまで上り詰めた選手、あるいはこれから上り詰めることがおおいに期待できる選手の育成年代時期に携わった指導者、保護者へのインタビューを通じて人材育成についての良い事例をまとめたものである。

小澤氏の上梓した『サッカー選手の正しい売り方 移籍ビジネスで儲ける欧州のクラブ、儲けられない日本のクラブ』(筆者のレビューはこちら)も読んだ感想として、小澤氏ほど足を使って取材を敢行しているジャーナリストはいないのではないか、と感じている。小澤氏の有料メールマガジン(2013年6月末で休刊予定)も購読しているが、精力的な取材には舌を巻く。信頼できるサッカージャーナリストの1人である。

共通している「育てた記憶がない」という証言

本書に登場する指導者、保護者に共通しているのが「育てた記憶がない」「育てたという認識はない」ということである。

いくら「練習しろ」と言っても人から言われたことは長続きしない。自ら「練習したい」「うまくなりたい」と思わせなければ真の意味での成長はない。ではどうしたら「練習したい」「うまくなりたい」と思わせることができるのか。突き詰めて考えていくと自ずと「教える」ではなく「引き出す」あるいは「引き出す環境を整える」ということが大事だということになる。本書に登場する方々は、「引き出す」ことをハイレベルで実践していることが分かる。

岡崎慎司選手の実母である岡崎富美代さんは、自らも自分のことを120%やりきるという姿勢が自然と子どもたちに伝わり、全力でがんばるということが育まれたという。

福岡大学サッカー部の乾眞寛監督は、短所には目をつむり長所を積極的に褒めることで選手の才能をつぶすことなく引き出し、永井謙佑選手の成長に寄与した。

Jリーグテクニカルダイレクターの上野山信行氏は「ティーチングではなくコーチング」と語り、言葉の定義や使い方まで気をつけた上で「引き出す」ことに注力している。

それぞれ細かな手段は異なるが、大局的に見て選手の内発的な動機づけを促すことが根底にある「指導・育成論」と見て間違いない。

小澤氏も本書におけるインタビューを通じて以下のように語り、主体的な行動や判断が何よりも重要という意見を持っているようである。

サッカーというスポーツにおいて選手に求められることが「自ら」考え、判断して行動し、結果責任を引き受けることである以上、どんなに小さな積み重ねであっても自らの考えや信念に基いてサッカーと向き合うことのできる選手は、小さな成功体験を積み上げながら手応えと自信を手にする。そして、それが次なるステージに選手を押し上げていく。(P.89から引用)

こういうことを考えている指導者が増えればいいのに、と心底思う。

良書であり、小澤氏に期待しているからこそ僕が思うこと

豊富なインタビューと事例により、本書に登場する7名が「育成」に成功したことはよく読み取れる。ではその7名から読者は何を学び取るべきか。

小澤氏は釘を差すように「はじめに」および「おわりに」にて以下のように語っている。

「子供を日本代表にするメソッドが知りたい、ノウハウを教えてほしい」 こういう考え方で本書を手に取った方には大変申し訳ないのだが、ここには『日本代表の育て方』に関する《正解》は一切記述されていない。(P.4から引用)
日本代表の育て方などないことを理解した上で、自分なりの育成・指導法を模索していくことが、日本代表を育てるための第一歩なのだ。その意味で、本書のタイトルには極めて逆説的なメッセージを込めたつもりでいる。(P.228から引用)

これは当然だろう。「正解」がない世界において絶対的に正しい方法などない。

一方で小澤氏は「普遍性」(P.10、P.24、P.44、P.169、P.190)、「普遍化」(P.4)、「普遍的」(P.137)という言葉を好んで使っているように思える。普遍であるということは、それはメソドロジー(方法論)でありメソッド(方法)ではない。メソドロジーは万人に共通して適用できるからこそ価値があり、それは育成とて例外ではない。例えば先の話で、才能や長所の引き出し方は人それぞれで正解がない(メソッドは様々ある)が、「引き出す」ということ自体(メソドロジー)は正しいと言えるだろうし、小澤氏もそのように感じているフシがある。

人材育成の世界は「おらが育成論」があまりにまかり通り過ぎている世界である。育成はどの世界にも存在し、自分も被育成体験を持っているため、自分の経験に照らしあわせて「こういうタイプは化けるんだ」というような認識のもとに勝手な指導・育成が行われる。それで育たなかった人のことは記憶の彼方に消し去り、成功したケースだけが記憶に残るのでますます「おらが育成論」が独り歩きする、という構図である。

これで本当にいいのだろうか。うまく育成された人は良いだろうが、その影でその何十倍も「育成されなかった」人がいるのではないだろうか。

もちろん、「育成してほしい」というのは本人の甘えで、本書でも語られている通り結局は本人が自主性をもって取り組まなければ成長が起こるはずもない。

しかし、幼年期や少年期、新入社員など、多くの人が「育成される」時期があり、そこで論拠のない育成論をあてがわれた人はたまったものでない。

手段や方法に絶対はないが、ベースのところでは適用して間違いのないメソドロジー、もしくは体系化された育成が存在するというのが僕の考えである。

例えば、「引き出し方」については、大きく分けてポジティブアプローチ(簡単に言えば、長所を伸ばす、内発的動機づけに期待する、など)とギャップアプローチ(簡単に言えば、足りないところを指摘する、課題を見つけるのを手伝う、など)が存在している、という体系化でも良い。ケースだけの留めず、抽象化することが肝要である。

メソドロジーは小澤氏の言うとおりケースから普遍性を抽出して紡ぎ出していくものなのであるが、僕も含めて大抵の人は残念ながらこの作業が得意でない。背景や環境、当人の適性などを考えずにケースから見える氷山の一角の出来事をマネして適用するのである。マネしやすいからケースが喜ばれるのであって、ケースは普遍性を抽出する宝だから喜ばれるわけではない。

なので、育成論を振りかざす場合は、ケースだけでなく、小澤氏の言葉を借りればケースを「普遍化」した結果を体系的に示すべきだと僕は思っている。

育成にも科学が存在する、それを語れる人は積極的に語るべき

小澤氏はサッカーにおける育成論は人材においても適用できると考えており、デットマール・クラマー氏へ以下の様な質問も投げかけている。

選手育成の方法を、企業や経済界における人材育成に転用することは可能だと思われますか?もしそうでしたら、どのような形で転用が可能でしょうか?(P.208から引用)

育成にも科学が存在する。小澤氏は当然それに気づいた上であえて語らずに読者に考えることを促しているであろうが、僕としては科学性に言及した上でメソッドについてはケースから学んでください、という構成の方がすっと腹落ちする。

前述したように多くの人はケースのマネをしてしまう。それで失敗を重ねながら自分なりの育成論・指導論を積み上げていくという考えもあるが、ではその犠牲になった被育成者はどうなるのか。サッカーの試合ならば失敗してもやり直せるが、長い目で見た育成において「失敗」などと軽々しく言っていいものでは思う。だからこそ、科学を語れる人がしっかりと科学を語り、その上でケースを参考にしてください、というのが「育成」を語る人の役割ではないかと、偉そうなことを思うのである。小澤氏に期待をしているからこその、ひとつの意見。



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