前著に続きサッカーを複雑系やカオス理論から斬る至高の哲学書。

「サッカーというものをシンプル化してはいけない」(P.54から引用)

昨今、サッカーやサッカーにおける戦術をすぐに理解できることを謳った解説本が横行している。マーケットにそのような需要があることの裏返しであるから書籍そのものを否定するわけではないが、複雑系であるサッカーのいち側面だけを切り取って理解しようとしてもそれは無理な話である。「物事をシンプル化するとは、問題を解決することだと思われているようだが、実際は問題を引き起こす行為だといえる」(P.55から引用)のである。

本書を読んで生まれるのは、むしろ消化不良感である。そして、その消化不良さゆえに生まれる探究心である。僕がこれまで見知った中では最も難解で哲学的な表現でサッカーを語るフアン・マヌエル・リージョは本書の刊行に寄せて次のように語っている。

唯一明確なのは、なにも明確ではないということ。それがオスカル・カノ氏の本のベースとなる。 本書を読むことで、読者はさらに疑念を抱くことになる。それと同時に、疑念を抱くということが最も適切な肯定の仕方であることを認識し、喜びを感じることであろう。(P.18-19から引用)

前半は複雑系の解説

前著『バルセロナが最強なのは必然である グアルディオラが受け継いだ戦術フィロソフィー』(筆者のレビュー)を読んだ人であれば、前半部分(チャプター2まで)は既読の内容も多いだろう。複雑系は真理であるがゆえに枝葉の議論は少なく、どうしても内容が重複するからである。

その内容をかいつまんで紹介すると、以下のようになる。

  • サッカーにおいては選手こそが主役であり監督にできることはわずかである
  • 監督の仕事は選手のポテンシャルを引き出すことをサポートすることである
  • 分かりやすい説明をするために物事を断片化したり複雑さを取り除いたりすることをやってはいけない
  • チームを構成する選手(の特徴)に即してプレーモデルを構築する
  • プレーモデルの持つ構成と機能はいったん破壊されても自己組織化のプロセスを経て再構築される仕組みを持つ(ので、再帰性を担保できるようなトレーニングを行う)

前著やその他の複雑系の学習によって学んだことがあったとしても、本書のひとつひとつの言葉はずしりと心に響く。この手の話は定期的に読み返さないといけないと改めて感じた。

後半は大量の図を用いた解説

真理に近づこうとしすぎると、ときにそれが正しいがゆえに実践的でなく、活用することが難解に陥ることがある。本書やオスカル氏の前著が指摘している複雑系の観点からサッカーの真髄に迫ろうとするやり方は僕も正しいとは思うが、その抽象性だけで世界がまわっているわけではない。時にはその俯瞰的なマップを捨てて、具体から踏み込むことが真理に近いということも往々にしてあることだ。

そんな思考の揺らぎがIntroduction「歪められたサッカーの本質」の次の言葉に表れている。

私はこれまで、図やイラストで埋め尽くされたサッカーの練習メニュー本を読むのを避けてきました。それはもしかすると私の過ちなのかもしれません。というのも、そのような本の中にも、サッカーをより深く知るためのヒントが隠されている可能性があるからです。(P.31から引用)

しかし当然のことながら、環境や背景、そして何より選手自身の特徴や選手間の相互関係を踏まえずに練習メニューだけを模倣してもチームに適したプレーモデルには到達できない。単純な練習メソッドでは次のようなことが発生してしまうのである。

多くの練習メニューはサッカーに内在する複雑性を著しく減少させ、事前に何が、いつ、どのようにして起こるのかということが予想できるような練習メニューばかりです。 そのため、サッカーで最も重要な要素である判断力が実際のゲームほど必要ではない状況で練習を行っている場合が多々あります。(P.38から引用)

そこで本書では、

  • 監督ではなく選手や選手間の相互関係こそが主であるという前提に立ち
  • 選手たちの能力を引き出すためのより良いプレーモデルの構築を
  • バルセロナを例にとって多くの図とともに解説する

という構成にすることによって単純な図解とは一線を画す内容となっている。

加えて、オスカル氏自らが考案・実践したトレーニングメニューが15個掲載されている。どの練習メニューも目的こそ掲載されているが細部の選手の動きを指示することはなく、選手の判断力を涵養することが隠されたカリキュラム(ヒドゥン・カリキュラム)であることが分かる。と同時に、練習には多くのプレイヤーを同時に登場させながらも各プレイヤーのプレーするエリアを限定していることから、本書の原題の「ポジショニングサッカー」における「ライン」という考え方を実践的に会得することができるメニューであるともいえそうだ。

「知的自由」という新しい言葉

本書の中で何気に僕がもっとも惹かれた表現が「知的自由」という言葉である。

効果的なパスが連続することで、常にフリーの味方が現れます。そして、そのフリーの選手がタレント性を存分に発揮します。こういった「知的自由」を持った仕組みが、コンスタントに表現されたのがクライフのドリームチームだったのです。(P.96から引用)

前著のレビューでも書いたのだが、いつまでたっても僕が不思議なのが、自己組織化といった生命科学のメタファーを用いるだけでは「ゴール」というプロセスは成立しないので、バルセロナではそれをどのように理解しているのかということである。

メッシが答えだと言われればそれは分かるのだが、どうしてももう少し違う表現で腑に落ちたいな、と。そこで本書で登場したのが「知的自由」という言葉である。今度はもう少しこの言葉を追いかけてみようかしら。



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