湧いては鎮まり、そしてまた湧くサポーター論。

良くも悪くも日本で注目されるサッカーは日本代表のサッカー。ザッケローニの監督指揮のもと、史上最強と言っても過言ではない快進撃を続けているので日本代表人気も右肩上がりな今日このごろである。さいたまスタジアムで行われるW杯アジア最終予選はチケット争奪戦となり、ヤフオクでチケットが10倍以上の値段で取引されたりしている。

そうなるとサッカー好きな人以外にもメディアを通じて活躍が伝わり、「私も試合観に行ってみようかしら」「ウッチーかっこいい!」といった「サッカー(や選手など)を新しく好きになった人」が出現する。新規のお客様というわけである。

いつの時代も古残のコアメンバーは新規との温度差や文化の違いに戸惑い、ときに反発するもの。反発は反発しか生み出さないので不毛な議論が生まれる。新規のお客様はとても大切なはずなのに、大切に扱えていない雰囲気があるのも事実。

といった流れが一定サイクルで現れ、今がまたその高潮といったところである。

この議論でもっとも不毛だと僕が思うのは、「サポーター」を定義したがる人とそれに反発する人によるやり取りである。

そもそも「言葉の定義」に対しては2種類の考え方がある。社会構成主義的な側面を重視している人と、広辞苑的な硬直的な定義を重視している人である。

社会構成主義とはざっくり言えば、現実世界を人々の認知から生まれてくるものと捉え、唯一の定義など存在せず、文脈によって意味や定義が変わるのが当たり前といった考え方だ。なので、社会構成主義派に言わせれば「定義?あなたの思ったことが定義なんじゃないの?」ということになる。

一方で明確な文章として誰もが共通認識できる形での定義を重視している人たちもいる。そういう人たちにとっては定義は文章で表現でき、それを皆が共通の認識とともに受け取るべき、と考える。

どちらが良い/悪いではなく、哲学的な領域である。

この両者では「定義」という言葉の定義すら捉え方が違う。なので、「サポーターとは」と問いかけられても回答が異なるのは当たり前である。そして、回答が違うことが当たり前、ということに居心地の悪さを感じる人もまたいるわけで、ソーシャルメディアでの揚げ足取りや罵詈雑言を含めた意見が飛び交うという構図になる。

僕自身は社会構成主義的な側面が強い人間なので、定義に固執していない。そして、定義がないからこそ「自分はこう思う。なぜなら・・」という意見を持つことが重要だと考えている。

本誌の中で植田朝日氏も識者の座談会において次のように語っている。

みんな流されるからね。セルジオ越後化していて、否定できるファンの方が詳しいと思っているんだよ。書かれた論調を見て「この人サッカーを知っているな」と思うときは、その人自身の意見を言っているときだよね。(P.45から引用)

僕が具体的にサポーターに求めたいのは、スタジアムの自由席での席詰め。論なんてどうでもいいから、席を詰めてほしい。席が狭いのは分かるが、2人で3つの席を確保するのが当たり前になっている。仕事の都合で会場到着がギリギリになる人もいるし、応援仲間がいなかったり先に到着できなかったりする人もいる。もちろん、早く到着した人がいい席を確保するのは良い。余計に確保しないでほしい、というお願い。

この手のサポーター周りの話は、ちょうどフット×ブレインでも2013年1月19日の放送でサッカーの応援スタイル教えます!という特集を組んだ(植田朝日氏もゲスト出演)こともあり、何かと話題になっている。うまいタイミングでの本誌の発売だと感じた。

最後に、サッカー批評というムック本について私見を。
毎号イシューを組んでその内容にあわせてジャーナリストに寄稿してもらったり企画を組んだりしているわけなのだが、イシューをぶち上げるのであればサッカー批評というムック本としての人格をもった意見をまとめた方がよいと感じる。

僕が普段目にしているサッカー以外の雑誌は仕事柄もあってハーバード・ビジネス・レビュー、人材教育、WORKSなどの経営・人文科学・人事系が多いが、これらの雑誌はすべて組んだ特集について編集部としての私見を載せている。こういった私見が人格(誌格?)を生み出し、単なるオムニバス以上の価値が生まれ、それが読者を獲得していく。ジャーナリストの寄稿だけであれば、「じゃあサッカー批評というムック本の価値はどこにあるのか」という立ち位置がわかりにくくなる。これはサッカー小僧などの他の雑誌系も同じなのだけど。

最近サッカー雑誌が増えてきたので、期待も込めて。



tags サッカー批評, サポーター論, 社会構成主義