風間監督の思想の根本にある「0か100か」。

川崎フロンターレが絶不調だ。足元では革命が浸透しつつあるとの論調も見かけるが、J1では8節終了時点で1勝3分け4敗の勝ち点6で15位、得失点差は−4。J1は勝ち点40程度が例年の残留ライン(今シーズンはもう少し低いかもしれない)であり、単純計算で8節時点では9.4ポイント取っていなくてはならない。次節で勝利してもまだ残留ラインを超えない、れっきとした「降格圏」である。

なぜ勝てないのか。

その理由を1つに絞ることはできないが、筆者が思うに風間監督が「0か100か」論者であることがおおいに影響があるように思えてならない。

全てのマネージャーが苦労する具体と抽象のバランス

サッカーに限らず、人に何かを教えたりマネジメントしたりすることを突き詰めていくと必ず1度はぶち当たる壁がある。

指示をした方がよいのか、自主性に任せた方がいいのか、という問いである。

指示をしてその通りにやってくれれば一時的には結果が出るかもしれないが、もしかしたら指示待ち人間になったり自分で考える力が身につかないかもしれない。

かといって自主性に任せることは「やり方そのものがわからない」というケースには不向きだし、誰もが自律的に動けるわけでもない。

どちらにしても帯に短し襷に長し、である。

この手の二元論は具体と抽象、理想と現実、帰納と演繹など様々な場面で現れる。もちろん、正解があるものではない。しかしだからこそ考え続ける必要があり、自分たちなりの答えを何らかの形で見出す必要がある。そしてその答えは当然「指示か放任か」という二元論で語られるものではなく、体のいい言葉を使えば「バランス」を見出すことによって得られるものである。自分たちなりのバランスを見つけ出すこと、それを柔軟に変化させること、そしてそのプロセスにおける絶え間ない努力が勝利への道筋である。

風間監督は、この「バランスを見出す」という誰もが実施している勝率を高めるための手段を放棄しているのではないだろうか。

理想を追い続けることが果たして正解か

5月1日にスポーツナビに公開された江藤高志氏のコラム誤算続きでも風間監督更迭の可能性は低いによると、風間監督は川崎フロンターレに多くの変化をもたらしていることは確かなようである。

江藤氏の言葉を借りて総じて言えば「選手を大人として扱う」という変化である。最たる例を引用しておく。

昨シーズン途中に就任した風間監督は、試合前に対戦相手のスカウティング結果を伝えるミーティングを原則廃止した。スカウティングは、影でチームを下支えするものとの認識があったため、これには驚かされた。風間監督はこれについて「選手たちは対戦相手のことは分かっている。そこに過剰に(情報を)与えるというのは......。それから(スカウティングの)見方が違っていたら、それは良い情報ではない。自分たちで判断するためにグラウンドの中でやってくれればいい。子どもじゃないんでね」と述べている。

また、多くの論者も指摘していることだが、現在の川崎フロンターレはほとんどロングボールを蹴らない。一方で、「攻撃の自由度」を重要視しているという。相手がどうこうではなく自分たちのサッカーをするということが理由らしい。

筆者がこれらの情報や試合を見ていて感じたことは「理想を追いすぎ」「選手に任せすぎ」などの偏り過ぎの傾向である。もちろん断片的な情報であるし内部までは知ることができないので穿った見方が含まれている。それにしても、もう少し現実を見て、そしてもう少し選手を管理するという考えがあるべきだと感じる。

上述のコラムには以下のような記述もある。

聞けば、はじめて指揮を執った桐蔭横浜大学サッカー部監督時代には、ガチガチに戦術を教え込む方法を取ったという。それである程度までの結果は出せたというが、教えた以上のものが見込めないとも考えた。だからこそ、川崎では多くの領域で選手の自主性に任せているのである。

理想に寄せる、放任主義に寄せる、などの立場を取ることは覚悟さえあれば誰にでもできる。もちろん、それで勝てていれば良い。その監督は賭けに勝ったということであり賞賛されることであろう。しかし実際にマネジメントする立場になって勝率を1%でも高めるためにすることは、どこで理想と現実のバランスを取るか考えること、具体と抽象を使い分けて説明すること、放任と管理の線引をギリギリのラインで考え続けること、などの「どちらともつかず」のグレーゾーンを的確に分かりやすく選手に伝えることである。このグレーゾーンをいかに選手に理解させるかが非常に難しく、そこに多くの監督は苦労している。

例えばプレーの選択においては具体的過ぎる指示は柔軟性がなく意味がない。かといって「常に数的有利を意識しろ」といった抽象的すぎる指示は現実的にどのように動けばいいのかの情報に乏しく、これまた意味がない。具体と抽象のバランスを取ることが求められ、それが広義の戦術、攻撃/守備パターンという形で降りてくる。「ロングボールを蹴らない」といった考え方はそのバランスを放棄しているように思えてならない。

相手がどんな武器を持っているか知らずに戦場に出るようなもの

スカウティングに関しても疑問が残る。もちろん、単にプレー映像だけを見せるだけでは意味がない。プレーという具体性の中から相手の攻撃/守備パターンを抽象化し、それを具体的な映像とともに伝えるから意味がある。

その作業なしにピッチに出てから確認するということでは、敵が刀を持っているのか馬を持っているのか鉄砲を持っているのか、それらをもとにどのような戦い方で挑んでくるのか、全く知らずに戦場に出るようなものだ。しかも、相手はこちらの武器を知っているのである。この時点で不利は否めない。サッカーは敵が邪魔をしてくる競技であり、何もかも自分たちの思い通りにいくことはない。その敵が何をしてくるのか事前に知った上での自主的な判断こそが活きるのである。

スカウティングは簡単なことではない。ピッチの上の具体的な情報だけを頼りに抽象に昇華して理解しなくてはならない。相手がどのようなパターンを想定して具体的な攻撃を仕掛けているか、リバースエンジニアリングする作業がスカウティングである。これを避けて、ましてや選手の自主的な判断に任せるということでは、自ら勝利の確率を高める努力を怠っていると言われても仕方ないだろう。

止揚なくしてイノベーションなし

具体でも抽象でもなく、そのいいところ取りでもなく、より高次元で両者を「綜合」することを止揚(元はドイツ語のアウフヘーベン)という。止揚の概念の中にこそイノベーションの鍵が隠されていることは一橋大学の野中郁次郎名誉教授も多くの著書(例えば『知識創造の方法論―ナレッジワーカーの作法』)で述べていることである。

革命という言葉はジャーナリストが勝手に用いた表現かもしれないが、革命を起こすのであれば理想や選手任せなど0か100かに寄り過ぎるのではなく、理想と現実や管理と放任の止揚を追い求めることが必要であろう。



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