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最近の海外遠征はすべて日本代表に捧げていて頭の中が「海外遠征=日本代表」の恒等式になっていたけどちょっと待て、と。にわかだけど僕はアーセナルが好きじゃないか。

アーセナル好きだけどアーセナルの試合を海外で観たのは1度だけ。しかもロンドンじゃなくて、ミラノで。2003年にUCLのグループリーグのインテルvアーセナルを観たっきり。この試合は1-5でアーセナルの大勝利だったのでそれはそれで良い試合にめぐりあえていたのだけど、それ以来2013年のアーセナルアジアツアー以外でアーセナルを観てないし。

えーい、行ってしまえー!

ということで海外遠征の選択肢として残っていた女子W杯@カナダをいろんな意味であきらめて、FAカップ決勝を観戦するためにイギリスはロンドンに渡ったのでありました。当方、初のイギリス。ガイドブックも買ってないけどiPhoneがあればなんとかなるか。

聖地WEMBLEYでの4-0の大勝利!アーセナルFAカップ2連覇!

初のイギリスなので当然ロンドンも初。エミレーツスタジアムに行く前にウェンブリーでいいのだろうかというモヤモヤはさておき、聖地にやってきたぜ。(以降当記事内の写真・動画はすべて筆者撮影)

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席はバックスタンドの1番上の方。もはや席なんてどこでもいい!ここに来たことが大事!

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アーセナルサポーターエリアの全ての席に置いてあったアーセナルタオルマフラー。一説によるとこのタオマフがヤフオクで3万円超えたとか・・。え?う、売らない・・に決まってるじゃないの!!

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試合前のセレモニーのときは両チームのエンブレムをあしらって盛大にどんちゃん。

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アーセナルはこの試合は黄色で臨むとアナウンスされていたので、多くのサポーターが黄色で参戦。アーセナルのゴール裏席は黄色っぽく。でも赤もたくさんいたけど。

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試合内容はここで改めて述べる必要もなし!アストン・ヴィラにまったくチャンスを作らせず4-0の大勝利!先発起用にこたえたウォルコットの先制弾、翼くんのドライブシュートか!と思わせるようなサンチェスの伝説に残るミドル、チャントで「Big Fu●king German!」と愛情込めて讃えられているメルテザッカーの打点の高いヘディング、相手のやる気がそがれた状態でのジルーのとどめの一撃、どれも素晴らしい得点!シーズンの最後の試合で最高のパフォーマンスだったよ!

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セレモニーが始まった頃にはアストン・ヴィラサポーターの席はもはやがらんどう。WEMBLEYの文字がくっきり写ってるよ!しかしそりゃ帰るよね。来年またがんばれよ!

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もう言うことなし!内容もスコアもすべてにおいて大満足!来てよかったー!アーセナルありがとう!

翌日の優勝パレードは雨の中でも大盛り上がり!

そして翌日は優勝パレード。エミレーツスタジアム周辺でバスでのパレードと優勝スピーチあるっていうので早々と陣取り。

まずはスタジアム東側のハイバリーハウスの方でバスをお見送り。

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動画もどうぞ!

Arsenal 2015 FA cup parade01 from yohei22 on Vimeo.


そしてバスを見送った後はダッシュでスタジアム西側のグッズショップ前へ移動!パレードで通行止めのエリアもたくさんあったのですごい大回りさせられたけど、そんなの気にならない!だって優勝したんだもの!

雨足が強まる中、バスから戻った選手たちが1人ずつ紹介されて、最後は我らがボスのベンゲル!

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カップを掲げ、紙吹雪がどーん!となったときの動画もどうぞ!

Arsenal 2015 FA cup parade02 from yohei22 on Vimeo.


とにかく幸せ気分を味わったロンドン遠征。海外遠征して応援してるチームが負けたときの徒労感ってホントに筆舌に尽くしがたいものがあるんだけど、今回はいい思いができたぞ、と。

今度はプレミアリーグでのアーセナルをエミレーツスタジアムで観てみたい!



tags FAカップ決勝, アーセナル


スタジアム観戦の愉しさを伝えるストーリーテリング。

本書は、著者である中村慎太郎氏が2013年10月5日に初めてJリーグを観戦してから3ヶ月間の間に起こったスタジアム観戦やファン同士、サポーター同士の交流を綴った冒険譚である。

ことの始まりは中村氏がJリーグ初観戦の感想を「Jリーグを初観戦した結果、思わぬことになった」というタイトルでブログに書いたことによる。

本書にもあるように、このエントリーはサポーター界隈で大変な話題となった。

その記事が大変な反響を呼び、アクセス数は2日で10万を越えた。そして、Jリーグクラブのサポーターという人達が突然たくさん現れて、メール、Twitter、Facebookなどを通じてぼくに話しかけてきた。(P.25から引用)

それからあれよあれよという間に中村氏はJリーグという物語の渦に巻き込まれ、あるいは自ら渦の中に飛び込んでいくこととなる。

ストーリーとしての完成度の高さ

本書を読んで感じたことは「Jリーグへ誘う至高のストーリーテリングである」ということ。

ストーリーは共感を生み出すための効果的なメソッドで、ビジネスの世界でも最近特に注目されている。ビジネスにおける競争戦略にストーリーの視点を持ち込んだ楠木建氏の『ストーリーとしての競争戦略』から引用して、本書『サポーターをめぐる冒険』を斬りとってみたい。

ストーリーであることの要点はいくつかあるが、『サポーターをめぐる冒険』がストーリーとして完成度が高い点を3点挙げたい。

1.時系列で書かれていること

『ストーリーとしての競争戦略』には次のように書かれている。

戦略の構成要素そのものよりも、そのつながりに注目しているという点で、ストーリーの戦略論はビジネスモデルの戦略論と似ています。ただし、大きな違いが一つあります。それは、ビジネスモデルが戦略の構成要素の空間的な配置形態に焦点を合わせているのに対して、戦略ストーリーは打ち手の時間的展開に注目している、ということです。(P.451から引用)

ストーリーとは「違い」を語るものではなく「つながり」を語るもの。そのため、時系列に徐々につながりが育まれていく様子が語られなくてはわかりにくいものとなってしまう。『サポーターをめぐる冒険』は見事に時系列に書かれており、中村氏が徐々に選手の名前やチャントを覚えていく様子が克明に描かれている。


2.短く言えることを長く言っていること

ビジネスの世界に身をおくと「要点は何?」「箇条書きで分かりやすく書いて」「結論から言って」など、前後のつながりを無視した「静止画」だけを求められる。ここから生まれるのはジャッジメンタルな姿勢であり、「あれは間違っている」「もっとこう言えばいいのに」「何言ってるかわからない」という思いがどうしても脳裏をよぎってしまう。

しかし、ストーリーとは「静止画」ではなく「動画」である。要点で語ることはできないし、つながりを大切にしているため、どうしても話が長くなる。

『ストーリーとしての競争戦略』には次のように書かれている。

従来の戦略論には「動画」の視点が希薄でした。戦略のあるべき姿が動画であるにもかかわらず、その論理を捉えるはずの戦略「論」はやたらと静止画的な話に偏向していたように思います。
(中略)
特定の文脈に依存した因果論理のシンセシス(筆者注:綜合)である以上、戦略はワンフレーズでは語れません。ある程度「長い話」にならざるをえません。(P.44から引用)

だから、『サポーターをめぐる冒険』の愉しさは筆者もうまく伝えることができない。短く言えることを長く言うことに価値があるので、要点だけを伝えても真価は伝わらない。とにかく読んでみてほしいというのが本音である。


3.どこにでもいるサポーターを扱ったこと

インパクトのある内容にしたり、物語「性」を大事にしようとすると、どうしても特徴的なシーンや目立つ人に焦点をあてざるを得ない。しかし、こういった尖った焦点は「すごい」「憧れ」といった印象を残すものの、ストーリーが本来持つ力である「共感」には向いていない。なぜなら、尖った焦点では多くの人はそこに自分を照らし合わせることができないからである。

『ストーリーとしての競争戦略』には次のように書かれている。

独自性を追求するあまり、あからさまに「尖った」顧客をターゲットにしてしまうと、筋の良いストーリーはつくれません。どんなコンセプトでも、それが心に響く顧客は世の中のどこかに必ずいるものです。しかし、それがあまりにマニアックであれば、ごく特殊なニッチに押し込められてしまいます。
(中略)
コンセプトを固めるときは、あくまでも「普通の人々」を念頭に置き、普通の人々の「本性」を直視することが大切です。(P.436から引用)

『サポーターをめぐる冒険』が世に出たとき、多くのサポーターが口にした言葉が「私がいる!」であった。この感覚がストーリーとしての臨場感につながっているのである。

素晴らしいストーリーは共感を呼び起こす

『サポーターをめぐる冒険』はまさに等身大のストーリーであり、市井のサポーターのみならずJリーグをまだ観に行ったことのない人も「自分ごと」として捉えられるように仕上がっている。

「自分ごと」とはビジネス用語では当事者意識のことであるが、この感覚や意識を持つことができるかどうかはビジネスにおいても趣味においても大切なことである。博報堂大学による『「自分ごと」だと人は育つ』では、「自分ごと」の状態について次のように記している。

「自分ごと」とは、いわゆる「主体性」です。通常「自分ごと」と聞くと、この言葉を思い浮かべる人が多いでしょう。打ち合わせや資料作成でも、常に自分の頭で考えて発言し、人に指示されなくとも、やるべきことを見つけて前に進めるための行動を取るという状態です。(P.53-54から引用)

人を行動に掻き立てることはなかなかに難易度が高いことであるが、『サポーターをめぐる冒険』はストーリーを通じて「自分ごと」に捉えてもらうことで主体性を引き出すことに寄与している。ストーリーテリングは創発型のアプローチで主体性を引き出すことを目的としている確立されたメソッドであるが、本を通じてそれができているという点がすばらしい。

また、別の言葉を使えば「自分ごと」に捉えるということは、ある対象について共感や好意を抱いている状態とも言える。

横浜Fマリノスの嘉悦社長もインタビューで言っているように、スタジアム来場者を増やすためには「認知→理解→好意→購入意欲→購入→リピート」という流れの中の歩留まりをよくすることが重要である。「自分ごと」に捉えることは、すでに3段階目の「好意」に到達していることを意味し、Jリーグへ誘うという意味で本書がもたらした貢献は非常に大きい。

特定のクラブを好きになるということ

イベントとして、Jリーグ観戦の等身大の物語を共有するストーリーテリングのイベントなど開催できれば面白いかもしれない。もちろん、Jリーグ観戦未体験者や、行ったことはあるけど数年に1回程度という人が来なければ仕方ないので集客が難しいけれど。

Jリーグに誘うという意味では、ストーリーテリングは傾聴と共感のメソッドだから向いていると思う。

前回のエントリーが特定のJクラブサポーターになれないボクなんていう盛り下がる戯言を書いておいてなんだけど、やっぱり特定のクラブを応援するのは良いことだと思う。中村氏もこのように言っていることだし。

サッカーはどちらかのチームに肩入れして「応援者」となる方が楽しめる気もする。(中略)サッカー観戦を楽しもうと思ったら、サポーターになって、物語の登場人物になるのが一番なのかもしれない。(P.164から引用)

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2014年5月3日 浦和レッズVSFC東京@埼玉スタジアム2002にて筆者撮影



tags Jリーグ, サポーターをめぐる冒険, スタジアム観戦, ストーリーテリング, 中村慎太郎, 共感, 自分ごと

Jリーグはよく観に行く。

スケジュールを見て、電車で行けそうなスタジアムで試合があって、僕に予定がなければ、スタジアムへGOだ。ただし、それは特定のクラブを応援するためではない。単に、サッカーが好き、Jリーグが好き、という理由で観に行く。座る場所は大体自由席の端っこの方、コーナーフラッグのあたりだ。声を出さなくて済むし座って観戦できるけれど、なんとなくサポーターの応援もよく聞こえる、コーナーフラッグのあたりとは大体そんなゾーンである。

Jクラブのサポーターになりたいと思ったことは何度もあるし、今でも思っている。

じゃあなればいいじゃないか、とよく言われるけれど、なかなかそうはいかない。

僕は自他共に認める小難しい人間で、すごくつまらないことを言っているとよく言われるわけだが、要はサポーターになるからには確たる理由が欲しいと、そういうことなのである。

僕は日本人であり、そして・・!?

僕は日本代表のサポーターだ。日本代表の試合はゴール裏で試合中ずっと立って声を出して応援している。W杯は98年からすべて現地観戦している。

なぜ日本代表を応援するのか?

 ― 日本人だから。

これ以上の解はない。日本人だから、日本代表を応援する。すごくステキなことだと自分では思っている。


では、クラブというのは何なのだろう?どういう理由で応援するものなのだろう?

僕は生まれてから22年間横浜市に住んでいた。であれば横浜Fマリノスを、横浜FCを、もしくはかつての横浜フリューゲルスを応援すればいいではないかと言われることがある。

でも僕は自分のことを横浜人だと思ったことはほとんどない。住んでいた場所が横浜駅に行くよりも渋谷駅に行くほうが楽な地域。真っ先に覚えた遊び場は渋谷。

だから、仮に「なぜ横浜Fマリノスを応援するのか?」と聞かれたとして「横浜に住んでいたから」と答えることが妥当でない気がするのだ。妥当でない理由でクラブサポーターになって良いのか、それで自分は納得するのか、そういうことを考えてしまうのが僕である。

今僕は東京都板橋区に住んでいる。ただし、まだ住み始めて日が浅いこともあるし、東京というメガシティの特性でもあるし、僕の天邪鬼なところもあるが、「僕」と「東京」はさしたる恋人関係にはない。何を小難しいことをと言われそうだが、自分が東京都に住んでいるという事実がFC東京を応援するという解釈にどうもつながらない。僕が住んでいる地域、僕の勤め先の地域にはFC東京なんて微塵も登場しない。東京は、僕が思うに大きすぎる気がする。

要は、僕は地域に対する帰属意識がないのだ。これがJリーグの掲げるホームタウン構想と相容れない。だから、と理由づけてよいのかわからないが、少なくとも僕は、「だから」Jクラブサポーターになりきれない。

帰属意識を感じる対象はある

僕は高校から7年間早稲田のお世話になった。もっとも多感な時期に7年間も同じ学閥に属していれば愛着も湧くというもの。僕は、自分のことを早稲田人だと思っている。

高校のサッカー部には、早稲田という理由もあるし自分が単に所属していたサッカー部ということもあるが、OBとして毎年1万円を寄付している。たぶん寄付やその他による市民からの1万円という額は、Jクラブも喉から手が出るほど手に入れたいものであるはずである。仮に1万人が1万円を出したら1億円。数千万円の不足で経営破綻しようとしているクラブがあるくらいだから、1億円は大金だ。

僕はその1万円を、Jクラブではなく母校のサッカー部に寄付している。僕にとっては、早稲田という存在は寄付しても惜しくないと思えるものなのである。

あ、早稲田ユナイテッド(東京都1部に所属する早稲田発のクラブ)がんばってほしいなあ・・。

共通の価値観を持った集まり、トライブ

現状、Jクラブは地域という価値観を根っことして共有して設立、羽ばたいていこうとしているクラブである。新しいプロスポーツリーグの発展のために悪くない選択だったと思う。

しかし、誰しもが地域を理由にJクラブを応援し始めるわけではない。自分とはゆかりのない地域のJクラブのサポーターもいるし、海外クラブのサポーターもいる。好きになるきっかけや応援を続ける理由は人それぞれ。

であれば、もしかしたら今後何らかの理由で特別なホームタウンを持たずに、何らかの別の価値観を共有したクラブが誕生しないとも限らない。それはアイドルグループの発展かもしれないし、それこそ早稲田や慶応のような学閥から生まれるものかもしれない。

近未来フットボール小説『エンダーズ・デッドリードライヴ』(筆者のレビュー)では、著者の後藤勝氏は地域に拠らないメガクラブ「インテルクルービ」を登場させ、クラブのあり方の壮大な思考実験をしている。

また、後藤氏は『エンダーズ・デッドリードライヴ』の出版記念イベントにて、共通の価値観をもった集まりのことをトライブと称していた。トライブという言葉は前近代的な響きでありながら実はネットワーク時代のホットワードでもあり、セス・ゴーディン氏は著書『トライブ』の中で次のように綴っている。

かつて「地理」には大きな意味があった。「トライブ(部族)」といえば、ある村の住民とか、ある国の地方に住む人々のことを指した。企業や組織も、本社やマーケットを中心に「従業員のトライブ」「顧客のトライブ」をつくってきた。
だが、インターネットがそんな地理の壁を取り払った。(P.21から引用)

著者によれば、現代におけるトライブとは次のような意味を持っている。

「トライブ」 ― それは、互いにつながり、リーダーとつながり、アイデアとつながった人々の集団(グループ)を指す。ただし、グループとトライブは違う。
グループがトライブに変わるためには、次の2つがあればいい。「共有する興味」と「コミュニケーションの手段」。(P.18から引用)

つながりを求める現代社会では、人々はよりトライバル化(後藤氏の表現を拝借)していく。最近Jリーグが推奨しているコラボレーションを活用し、他団体のトライブを巻き込むことはこの流れから考えて理にかなっている。

さらにもう一歩踏み込めば、地域に拠らないトライブがクラブとして育っていくことも今後は十分にあり得るし、先ほど挙げた早稲田ユナイテッドもその一例である。Jクラブライセンスのためにホームスタジアムを保有したりアカデミーを持ったりしなければならないのでどうしても地域に根ざさなければならないが、根ざす地域を決めること自体はそう難しくなく、スタジアム問題だけが難点となりそうだ。

いつかその日が来るときまで

冒頭にも書いたけれど、僕は好き好んで「無所属」を決め込んでいるわけではない。

気持ちが既存のクラブに傾く日が来るのか、それとも新規クラブで僕の心にぐっと来るクラブがJに登場するのか、それはわからない。でも、いつか僕もJクラブサポーターになりたい。いつかその日が来ることを信じて、今はスタジアムに通う日々。

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2014年7月27日 川崎フロンターレVSアルビレックス新潟@等々力にて筆者撮影



tags サポーター, トライブ, 価値観の共有, 帰属意識, 早稲田


日本サッカーの行く末と可能性を考えさせられる重要な問題提起。

本書のタイトルは『Jの新人 Jリーグ新加入170選手の価値 2014』と新人にフォーカスを当てたものとなっており、内容も新人を中心に話が進んでいく。しかし、本書の真髄は新人の紹介にあらず。新人やアンダー世代の動向から日本サッカーかくあるべきかを皆で考えようという大きな問題提起本である。

論点は大きく2つある。

1つ目は、U17やU19のようなアンダー世代の日本代表は何を目標とすべきかという話。もちろん勝利に越したことはないが、仮にフル代表におけるW杯の上位進出や常勝軍団化が大上段の目的であるならば、アンダー世代はそれに準じたモジュールとして機能すべきであるとも言える。この話題は本書における1章から4章までに含まれている。

2つ目は、クラブとしての選手の「採用」、逆に言えば各新人Jリーガー個人としての「就職」はどのような設計で行われることが双方にとってポジティブな結果をもたらすのかという話。この手の話題は常に合成の誤謬が存在し、その割りを食うのは弱者である多くの新人であるケースが多い。新人送り出す側の指導者こそ読んでもらいたい内容である。この話題は本書の5章から8章までに含まれている。

フル代表とアンダー世代の代表の関係を模索する

2013年のU17W杯の日本代表の極端なポゼッション志向を記憶の方も多いだろう。本書もまずはこの通称「96ジャパン」の検証から始まる。

96ジャパンはグループリーグを3戦全勝で勝ちあがり、R16のスウェーデン戦に1-2で敗れ大会を去った。このチームの特徴は「U17スペイン代表よりも"バルサっぽい"」と評されるようなポゼッションへのこだわりにある。本書にもこのような記述がある。

「ボール保持を重視するサッカー」と一口に言ってもいろいろあるわけだが、96ジャパンが2011年のチーム活動時に想定したコンセプトは「2人のセンターバックと8人のボランチ」(吉武博文監督)という異端の発想だった。(P.14-15から引用)

試合の映像を見た方はご存知だと思うが、敗れたスウェーデン戦も含め、ボール支配率ではどの試合も相手を圧倒。96ジャパンのポゼッションのコンセプトは確実に成功していた。プレミアリーグのスウォンジーを見ても分かるが、適性のある選手を選択すれば世界的に有名な選手がいなくてもポゼッションできるチーム作りは可能であり、それが日本人でも実現できることは証明されたといって差し支えないだろう。

一方で当然、割を食う選手も存在する。

必然、"このサッカーだから選ばれない選手"というのが相当数出てくる。
すでに述べたように、ボランチタイプの選手を並べることでポゼッションに特化したのが96ジャパンだった。となれば、ボランチ適性のない選手の居場所はどこにあるのか。
シンプルに言ってしまえば、「ない」。(P.31から引用)

典型的なセンターフォワード、縦に速い選手、運動量に自信のあるサイドバックなど、それぞれ人に負けない「長所」を持った選手たちは「適性」がないという理由で96ジャパンから漏れている。


さて、ここで考えたいのが、アンダー世代の代表とはかくあるべきか、という話である。

ここ3大会連続でU20ワールドカップへの出場を逃していることもあり、2014年10月に開催されるU19アジア選手権で4位以内を確保してU20ワールドカップへの切符を手にできるかがサッカー界では非常に注目されている。

この背景には「この世代で世界を経験することが後の成長やフル代表におけるワールドカップでの上位進出に欠かせない」という文脈が含意されている。

当然この文脈は先のU17世代でも同様だろう。であれば、果たして吉武監督の「2人のセンターバックと8人のボランチ」というチームコンセプトは正しかったのだろうかという疑問が浮かび上がる。日本の弱点とされるセンターフォワードタイプの選手を意図的にチーム構成から外しているのである。経験もへったくれもない。確かにU17は見ているものを楽しませるサッカーでR16まで進んだ。一定の評価も得た。では、その結果としてフル代表の強化につながっていくのだろうか。

各自が自分の意見を持って論じたいテーマである。本書にはその材料が多数転がっている。

新人獲得におけるクラブの事情、新人の事情

高卒でJクラブに入団し、4年以内にポジションを獲得している選手はそう多くない。そのような背景から、大学で経験を積んでからJリーグ入りというルートを選ぶ選手が増えている。

しかし現実はなかなかに厳しい。

資金力のあるクラブにとってほとんどの大卒ルーキーは、安く使えるバックアッパーという位置付けだ。それが現実である。スカウトはそれぞれの選手に甘い言葉もかけて誘うわけだが、実態としてあるのは大卒ルーキーの出場実績が端的に示しているように、"即戦力のバックアッパー"というポジションである。(P.109から引用)

浦和や鹿島などブランドのあるクラブから自分がスカウトされたら嬉しいに決まっている。また、試合に出られなくともJリーグを代表するクラブで練習を積むことで成長できるというのもあながち間違いではない。

しかしやはり選手は試合に出てナンボ、だろう。主に資金的な問題でサテライトリーグがなくなった今、控え選手は実戦経験を積む場を確保しにくい。そこでJリーグとしても、「育成型期限付き移籍」として18歳〜23歳の選手はカテゴリーが下のリーグへの移籍は移籍期限外でも認めたり、J3を発足させて実戦経験を積む場を増やしたりと環境を整い始めている。

「高卒ルーキーが試合に出られない問題」への解答は結局のところシンプルで、「試合に出られるチームへ移ればいい」ということでしかない。(P.167から引用)

とあるように、J2だろうがJ3だろうが、新人選手はまずは自分が数年後に試合に出られるかどうかをクラブ選択の観点のひとつに置いてほしい。横浜FMから愛媛に期限付きで移籍し、愛媛で活躍して五輪代表選出→横浜FMでもレギュラー獲得→ブラジルW杯メンバー入り、という先例が示す通り、試合に出ることが何より重要なのだから。

この他に、クラブ側が必要に応じて即戦力を獲得するための考え方などが紹介されており非常に興味深い。サッカーではなくても一般的な企業などの採用活動においても参考になりそうだ。

他に類を見ない利益度外視の良書

正直言って、一般的には売れない類の書籍であると思う。タイトルもストレートでマーケティングっぽさはない。

著者の川端暁彦氏は2014年5月にローンチしたJ論の編集長であり、このJ論という特異なメディアもまたビジネスの要素よりも本質的なメディアのあり方の追求を目指したサイトのようである。マネタイズが先行しがちなメディアの世界にバサバサと斬りかかっていく姿は応援したくなる。

本書もそのような一貫した姿勢から生み出された一冊であり、新人という切り口から日本サッカーの未来地図を模索する野心的且つ本質を突く良書である。



tags 96ジャパン, Jの新人, アンダー世代, 川端暁彦


躍動感あふれる近未来フットボール小説。

ときは2029年。5年前に勃発した世界同時内戦は収束の兆しを見せていたものの、まだ各地では紛争の火種がくすぶっている。日本も例外ではなく、地域の往来にパスポートの提示を余儀なくされるなど混乱が続いていた。

フットボール界では翌2030年に大きな変化が2つ訪れようとしていた。
1つは、クラブ主導の世界大会「ゲオ・グランデ」の新設。日本からこの大会に参加できるのはリーグ1位のみ。そして1位のクラブは同じく新設される協会組織である「スターボール連盟」の議決権を得ることができる。上位クラブにとってリーグ優勝はこれまでと違った重みを持つものとなる。

もう1つは、日本のフットボール界に新設される「プレミアシップ」。現状の1部に相当するディヴィジョン1(20チーム)の上位14チームが初年度のプレミアシップへの所属が許される。実質下位6チームが翌年度は2部相当となるディヴィジョン1に「居残る」ことになり、中堅クラブにとっては死活問題となる。

父親の遺言で急遽東京湾岸地区の貧乏クラブ「銀星倶楽部」の社長となった群青叶(ぐんじょうかなえ)は、同じく東京を本拠地とするメガクラブ「インテルクルービ」から様々な圧力をかけられていた。姉である奏(かなで)を専務として登用したインテルクルービの本当の目的は何なのか。銀星倶楽部は経営破綻せずにプレミアシップ参加条件の14位以内を確保できるのか。

クラブ経営から監督目線の戦術論、ピッチレベルで起こる試合の描写までフットボールの醍醐味を余すことなく盛り込んだ近未来フットボール・フィクション。サイドストーリーとしての群青叶の恋の展開もお楽しみ。

マイクロスポンサーの仕組みを利用して刊行

もともと本書を知ったきっかけはツイッターで流れてきたミライブックスファンドというマイクロスポンサーの触れ込みだった。

『エンダーズ・デッドリードライヴ』というフットボール・フィクションを上梓したい。すでに構想はできている。しかし資金が足りない。そこで少額でも構わないので応援してくれる人からの援助を募集、という内容。
ミライブックスファンドのエンダーズ・デッドリードライヴのプロジェクトページ


故・野沢尚氏の『龍時』シリーズ以降、魂が揺さぶられるようなフットボール・フィクションに出会っていないこともあって、期待を込めて筆者も援助を決意。目標金額は15万円とのことだったが、287500円も資金が集まりめでたく本書は日の目を見ることとなった。

15万円を超えた分は広報活動にまわすとのことで、公式サイトも充実の出来栄え。また、youtubeにも本書の公式PVが存在している。


ちなみに筆者の手元にある本書は支援特典としていただいたもの。著者の後藤勝氏のサイン入りで、巻末にはSPECIAL THANKSとして筆者のハンドルネーム「yohei22」も掲載いただいている。

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著者の後藤氏はトーキョーワッショイ!プレミアムというFC東京を応援するサイトを運営し、サッカーの取材を続けるジャーナリストという立場であるが、そういった方でもフットボール小説の刊行のためには出版社が無条件でGOを出してくれないというのは厳しい現実。ぜひ本書が売れて続編が生まれたり、別のフットボール・フィクションが対抗馬で出てきたりと、そういった起爆剤になってほしい。

フットボール界の問題をさりげなく散りばめた間接的な問題提起

物語は主人公・群青叶の一人称で進んでいく。社長業に就いたこともあり、小説の多くは経営に関する諸問題とその解決への奔走に割かれている。

スタジアム問題、育成への投資、女子部門の保有、外資の受け入れ、など実際にクラブ経営に携わっている人が読めば頭を悩ませているうような話題に事欠かない。小説ではそれぞれ偶然も手伝って解決していくので「現場はこんな簡単にいかない!」という批判もあるだろうが、そこはご愛嬌。個人的にももう少し重層感を持ったプロットを敷いてほしいとは感じたが、長編小説は初とのことなのでこれからに期待。

フットボール界の話題には一見関係なさそうな世界同時内戦という時代背景も、インテルクルービの本当の目的が明らかになるにつれて欠かせない舞台設計だったと気付かされる。疑問の氷解と並行して、少しずつフットボール・フィクションが持つ重要な役割について考えさせられた。

フィクションが持つ2つの役割

エンターテイメントという側面は当たり前として、本書を読んでフットボールというジャンルにおけるフィクションが2つの役割を持っていると感じた。

1つ目は、コンテクストを含んだ著者の意見の表明の場として。

小説内で、著者の意見を主人公・群青叶の口から明確に発している場面がある。とある試合の前のドレッシングルームにて。

「この何ヶ月かでぼくが痛感したのは、フットボールクラブの主役はやっぱり選手だということなんだ。クラブの精神をいちばんわかりやすく伝えるのは選手のプレーだ。どんなにぼくらビジネススタッフが言葉を尽くすより雄弁で、みんなが試合を終えたときにすべてを出しきった表情のほうが、ファンにはよく伝わるんだよ。キックオフからタイムアップの笛が鳴るまで、ボールを自分たちのものにして、表現することだけを考えよう」(P.276から引用)

この言葉だけでも想いがこもっているが、小説という文脈に乗せることでさらに言葉が生きたものとなる。試行錯誤した末に辿り着いた結論だということが読んでいればすごく分かるので、説得力がある。僕は、これは後藤氏の強いメッセージだと受け取った。フィクションは、ストーリーという共感する仕立てを作り上げることができるとても優れたジャンルなのだ。

2つ目は、壮大な思考実験として。

今後、現実世界で本当に内戦が勃発しないとも限らない。外資の参入(50%以上の出資)が許可されるかもしれない。クラブ名に地域の名称を冠さなくても良くなるかもしれない。AFCやUEFAなどの協会の力が弱まり、クラブ主導の世界大会が本当に開催されるかもしれない(※)。

そういったことが起こったならば、一体我々は事態をどのように受け止め、どのように考え行動するべきなのか。ミクロレベル、マクロレベルでどのような意識の変化が起こるのか。本当に本書のような時代背景であれば、僕は、そしてあなたは、インテルクルービ派だろうか。それとも銀星倶楽部派だろうか。とても考えさせられる。その壮大な思考実験の場として、フィクションが果たす役割は大きい。

『龍時』はピッチの上での戦いを克明に描写し、フットボール・フィクションの新ジャンルとして一時代を築いた。しかし悲しいことにもはや『龍時』の続編が出ることはない。

『エンダーズ・デッドリードライヴ』はクラブ経営までを含めたフットボール界の戦いを描写した新たなフィクションとして、今後さらに磨きをかけてほしい。続編出れば、もちろん買います。


(※)ちなみにヨーロッパのスーパーリーグ構想は過去に何度も実現しそうなところまで話が進んだが、結局はUEFAの反対により実現していない。クラブとUEFAの戦いの歴史は『チャンピオンズリーグの20年』(筆者のレビュー)に詳しい。

  



tags エンダーズ・デッドリードライヴ, サッカー小説, フットボールフィクション, 後藤勝, 龍時

2013年度のJクラブの決算が出揃い、Jリーグの公式サイトにも資料がアップされた(一番下のJクラブ個別経営情報開示資料)。

クラブ経営に関してはこれまでも何度かエントリーをあげてきており、今回も新しい情報をもとに経営的に危ないクラブを取り上げていく。

参考エントリー

クラブライセンス制度のおさらい

Jリーグはクラブの経営基盤の強化と安定化のためにクラブライセンス制度を運用しており、基準に抵触するとJクラブライセンスが交付されないなどのペナルティが待っている。

基準は競技に関するものなど5種類にわかれており、その中に財務基準というものがある。

財務基準をクリアするための要件は以下の2点に集約される。

  • 2012年度以降、3期連続で当期純損失(赤字)を計上していないこと
  • 2014年度以降、債務超過に陥らないこと

今般公開された2013年度の決算は当期純損失(赤字)についてチェックする2期目であり、2012年度、2013年度に連続で赤字計上しているクラブはライセンス剥奪のリーチがかかったといえる。

当エントリーでは上記2点の要件に照らしあわせて、基準に抵触しそうな危ないクラブ(J3除く)の決算をまとめて紹介したい。

当期純損失(赤字)計上クラブ

まずは財務基準要件の1つ目、当期純損失について。下の表を見てもらいたい。

2013年度純損失クラブ一覧.jpg

この表は、2013年度の決算で純損失を計上したクラブについて、赤字額の多い順に並べたものである。

J1とJ2の全40クラブのうち、赤字計上は11クラブ。表内の赤いセルは2012年度に続いて2期連続で赤字のクラブを示している。これらのクラブは2014年度、つまり現在進行中のシーズンにおいて赤字を計上するとJクラブライセンス剥奪などのペナルティが待っている。具体的なクラブは、神戸、福岡、名古屋、栃木、群馬、湘南である。

表内の黄色いセルは、2012年度は黒字だったが2013年度に赤字になったクラブ。鳥栖、東京V、G大阪、清水、長崎がここに分類される(長崎は2013年度に新加盟なのでデータなし)。

数値を見ただけで、神戸の赤字額が抜きん出いることが分かる。また、神戸に関しては後述する債務超過額に関しても群を抜いている問題クラブである。

鳥栖も若干気になるところだろう。鳥栖は2012年度に比べて収益が2.5億円増加したが、費用が約7億円増加しており大幅な赤字に陥った。特に人件費が6億円から10億円に1.5倍以上増加しており、チーム成績の向上が経営的には逼迫要因になり得ることが如実に現れた結果となっている。

その他は赤字額が目立つクラブはないが、J2の金欠クラブは1000万円集めるのにも苦労している状態である。実態としてかなり苦しい経営を迫られているクラブもいくつか存在しており、なんとか黒字回復を祈るばかりである。

債務超過クラブ

次に要件の2つ目、債務超過について。債務超過についても表にまとめたのでご覧あれ。

2013年度債務超過クラブ一覧.jpg

債務超過も11クラブ。赤いセルは1つ名の要件である赤字計上とのダブルで抵触しているクラブ、黄色いセルは赤字ではなかったがこれまでの累積によって債務超過のクラブである。

これらを踏まえていくつかのクラブについて個別に状況を詳述する。

神戸 〜 額だけ見れば大問題だが・・

さて、まずは神戸から見てみよう。神戸は2期連続で赤字を計上したばかりでなく、累積損失が16億円を超えている。クラブライセンスを剥奪されないためには、来期は16億円超の黒字を計上することがマストである。普通に考えて、ムリ。いくら今年度からJ1にあがったとはいえ、昨年度3.7億円の赤字クラブが今年度16億円の黒字になるわけがない。どこのクラブも自力では1億円の黒字すら出すことが難しいのJリーグである。途方にくれるしかない・・わけなのだが、個人的には神戸は16億円の黒字に持ってくると考えている。その理由は、次に説明する債務超過額2位の横浜FMのケースで取り上げる。

横浜FM 〜 自力再建は断念し、スポンサーの力で回復へ

これまで継続してJクラブの決算を見てきた人であれば、2013年度の横浜FMの優良決算に目を見張ったことだろう。2012年度は16.7億円あった債務超過が2013年度は6.7億円と10億円も改善されているからである。このペースであれば2014年度に残りの6.7億円の債務超過を改善することはたやすい。なぜ横浜FMはここまでの劇的な回復を遂げることができたのか。

答えは簡単で、日産が通常のスポンサー費に加え、追加で10億円出したからである。正確に言えば、日産がマンチェスター・シティ(マンC)と業務提携し、マンCにスポンサードしたお金の一部をマンCが横浜FMに出資する形を取っている(詳しくはFマリノスから「NISSAN」ロゴが消える日 | 東洋経済ONLINEを参照)。これにより日産はマンCを通じて欧州への広告効果を狙えるし、マンCはアジアでのファン層拡大のための足がかりとすることができる。

もちろん、横浜FMも2012年度までは単体で赤字計上していたのが、2013年度はイーブンにまで回復している。プライマリーバランスが回復しているということは、経営状態がすこぶる悪いわけでもないだろう。この点に関しては嘉悦社長の努力の成果といえる。

ただ、結局10億円レベルの債務超過を自助努力のみで回復するのはほぼ不可能で、大規模なスポンサーに頼らざるを得ないのは間違いない。神戸が大丈夫と先述したのも、楽天という大スポンサーがバックについているからに他ならない。もちろん楽天もお金をドブに捨てることはしないだろうから総合的に楽天の発展に寄与する方法を取ってくるだろうが、16億円くらいは楽天にとって出すことは難しくないと想像できる。

大分、鳥栖、岐阜 〜 それぞれ事情は異なるが問題はない

次に債務超過が多いのは大分、鳥栖、岐阜の順だが、おそらくこれらのクラブは問題なく基準をクリアするだろうと思われる。

大分は過去に自力再建不可能に陥り、Jリーグから支援を受けた過去がある。当時の特別扱いを問題視するきらいもあるが、そのときに十分すぎるほど痛い目を見ており、2013年度は2億円超の黒字を計上するなど安定した経営に向けて努力を続けている。2014シーズンはJ2に降格したため収入面で不安もあるが、帳尻はあわせてくるだろう。

鳥栖も同様、2013年度に大幅な赤字を計上して債務超過に陥ったが、もともと赤字体質のクラブではないため心配はしていない。リーグ成績向上によりチーム力維持のために人件費は増したが、今シーズンも継続して上位をキープしているという事実は今後は追い風にもなるはずである。

岐阜は、Jトラストの藤澤信義氏からの資金援助があるのでまったく問題がない羨ましいクラブである。

栃木、群馬、熊本 〜 実は深刻なのはこれらのクラブ

以降は債務超過額で言えば6000万円程度以下のクラブであり額自体は大きくない。しかしそれはクラブ規模が大きくないから債務超過額も大きくならないだけで、実際にはかなり苦しいクラブばかりである。

栃木、群馬、熊本などは最後の頼みの綱として地元での募金活動を実施したりしている。募金だけで何千万円も集まることはないだろうが、募金人数や額を頼りに「地元から愛されているし必要とされている」という姿勢を示し、地元の企業からお金を引き出すのが目的だろう。仮に2014年度は乗り切ったとしても以降も毎年継続して苦しみが続く。何が何でもJ1に昇格というクラブではない(栃木はそのプロジェクトを一旦あきらめている)ので、今後の生きる道を探らなくてはならないだろう。

福岡も2013年末に5000万円ほど現金が足りないと騒ぎになったりともがき苦しんでいる。そのときは明太子のふくやの支援などもあって乗り切ったが、結局2013年度は赤字計上しており債務超過に陥ってしまった。2800万円と額は多くないが、果たして乗りきれるか。

札幌、北九州 〜 安心はできないが2014年度は乗り切るだろう

札幌は札幌ドームの使用料が高いことが経営の逼迫要因。ただ札幌は経営努力もすばらしい。既に退団となったがレ・コン・ビンを獲得して東南アジアに活路を見出したり、今シーズンは小野伸二を獲得して平日開催のホームゲームで13000人ほど集客したりと、追い詰められているわけでもなさそうだ。

北九州に関しては2013年度は黒字計上しており、1100万円程度の債務超過はなんとかなるだろう。

クラブライセンス制度は何をもたらすか

さて、最後にまとめを。

クラブライセンス制度の導入が決まった当初は横浜FMや神戸、名古屋あたりが危ないと思っていたが、大きなクラブは大きな後ろ盾があり、結局は何とかなってしまう。あおりを食らうには地域の小さなクラブであることが明らかになってきている。

このグラフは2013年度の40クラブの決算について横軸に売上額を、縦軸に当期純利益(損失)額をプロットしたものである(単位:百万円)。

2013年度決算プロット.jpg

特殊な事情の横浜FMを除けば、どこのクラブも売上額こそ差はあれ、利益は似たり寄ったりなのがJリーグなのである。そして財務基準で四苦八苦しているのは売上額の少ないごちゃっとしたグループに属しているクラブということである。

しかし、個人的にはこうやって基準を作ってある程度追い込むのは悪いことではないと思っている。もちろん基準はライセンスを剥奪することや締め付けることが目的ではなく、健全経営のための指針となるべきである。そこは誤ってはならない。

一方で、資金難に陥って地元で募金などをしてみると、やはり地元に愛される以外に生きる道はないということに嫌でも気付かされる。これにいち早く気付いたクラブは、Jリーグ百年構想に立ち返って総合スポーツクラブとして地域に根ざして生き残る道を模索し、ある種の成功を収めているクラブもある。川崎F、湘南、C大阪、札幌、新潟、松本などが良い例だろう。

Jリーグ自体まだ21年目であるし、本当の意味で地域に根ざしてクラブが経営の方針を変え始めてまだ数年。根ざすのはこれからである。一時的には苦しみもある財務基準であるが、将来的な健全なリーグの発展のために必要な改変であるはずだ。願わくば、どのクラブもJクラブライセンスが剥奪されることがありませんように。



tags Jリーグ, クラブライセンス制度, 財務基準

ご存知の通り日本は2014ブラジルW杯でグループリーグ敗退。1分2敗の勝ち点1、得点2に対し失点6という数値は「惨敗」という表現を使って異論ない結果だろう。

これでザッケローニ体制の4年間のプロジェクトは幕を閉じた。筆者は日本のグループリーグ3試合をすべて現地で観戦し、少なからずショックを受け帰国の途についた。ただ、コロンビア戦の敗退から2週間が経ち、時間という薬が少しずつ敗戦のショックを和らげてくれていることを実感しつつある。この4年間の総括をして次につなげようという巷の流れに徐々に乗っかっていこうと思う。

IMG_1825.jpg 2014年6月24日 日本VSコロンビア@アレーナ・パンタナールにて試合終了後筆者撮影

自分たちのサッカーという曖昧さ

どうやら日本サッカーを取り巻く空気は「自分たちのサッカー」なんて糞食らえ、のようである。日本が基準としているプレーモデルについて具体的な言葉を使わず、「自分たちのサッカー」という曖昧な表現が席巻していたため、「何それおいしいの?」という揶揄に火がついたようだ。

そこで筆者なりに「自分たちのサッカー」とは世間的にどのように理解されていたのかの整理を試みたい。そのためにはサッカーという競技における次の特性を踏まえる必要がある。

サッカーには、ボールを保持している攻撃の状態、ボールを保持していない守備の状態、その移り変わりの瞬間であるトランジションの状態の3つの状態が存在し、それぞれが排他的な状態として成立している。また、トランジションについてはボールを奪った瞬間のポジティブ・トランジション(ポジトラ)、ボールを失った瞬間のネガティブ・トランジション(ネガトラ)に分けられる。

現代サッカーにおいては、トランジションを活用する/活用させないことが試合の鍵を握っている。このあたりは『アンチェロッティの戦術ノート』が詳しいので引用しておく。

サッカーにおいて、攻撃と守備という2つの局面は、例えばアメリカン・フットボールや野球のようにはっきりと区切られているわけではなく、常に入れ替わりながらゲームが進んでいく。そして、プレーの展開が最も不安定になり、コントロールを失いやすいのは、まさにこの2つが切り替わった瞬間である。

組織的な守備が発達し、一旦相手が守備陣形を固めてしまうとなかなかそれを崩すことが難しくなる現代サッカーでは、攻守が入れ替わる一瞬に生まれる「戦術的空白」を攻撃側がどれだけ活かせるか、そして守備側がいかにそれに対応するかが、非常に大きなテーマになっている。

近年の戦術をめぐる議論では、この攻守が切り替わる瞬間に焦点を絞って、移行、転換といった意味を持つトランジション(イタリア語ではトランジツィオーネtransizione)という用語が使われるようになっている。(P.65-66から引用)

さて、ここで「自分たちのサッカー」である。

日本が「自分たちのサッカー」というとき、これはボールを保持している攻撃の状態(ポゼッション時)における振る舞い方を指している。試合の多くの時間においてボールをポゼッションし、その状態において相手を揺さぶりながらときにリスクをおかすプレーを選択し相手の陣形を崩して得点を目指す、そういった一連のプレーを指していると思われる。

コンフェデのイタリア戦は敗戦であったものの、「自分たちのサッカー」ができていたという意見は大勢を占めるはずである。ではイタリア戦で「自分たちのサッカー」が体現できていたのはどのようなプレーから想起されるかと問われれば、試合終盤に圧倒的にボールを支配してイタリアを押し込んでいたときだろう。

ここでミソとなるのは、非ポゼッション時やトランジション時の振る舞いは「自分たちのサッカー」には含まれていないということである。

つまり、ポゼッションができないと「自分たちのサッカー」は発動できない。

そのため、日本は必然的に強豪や格上相手にポゼッションで上回られると、「自分たちのサッカー」をしていない、あたかも戦う気持ちすら失ったように見えてしまうのである。

コスタリカのサッカーは非ポゼッションとポジトラにあり

翻ってコスタリカである。死のグループと呼ばれたグループDにおいてイングランドとイタリアを差し置いて決勝トーナメント進出。それも1位抜けである。決勝トーナメント1回戦ではレシフェの地にてギリシャとPK戦を演じ、見事にベスト8進出。大会前の親善試合で3-1で勝利を収めた相手ということを考えれば、何ともやりきれない気持ちになる。

そのコスタリカはベスト8でオランダと対戦し、死闘の末に0-0のPK戦にまで持ち込むことに成功。PK戦ではファン・ハールの「PK戦要員GKクルル」の奇策の前に惜しくも敗れたが、その健闘に世界中から拍手喝采であったことは記憶に新しい。

さて、コスタリカはなぜここまでの「名誉」を手にすることができたのだろうか。

その理由は、コスタリカの「自分たちのサッカー」にある。

コスタリカのサッカーは、相手にポゼッションさせ、それを巧みなラインコントロールと5バックによって固めたブロックで守りきり、あわよくばカウンター(ポジトラ)で得点を取るということを目指している。

つまりコスタリカは相手が強ければ強いほど、同時に「自分たちのサッカー」を発動できるのである。「自分たちのサッカー」によってオランダ相手に幾度のピンチを凌ぎ切り、最後はPK戦にまで持ち込むことができた。当然「出しきった」と見えるし、健闘の末に敗れた勇気ある敗者と映ることだろう。

なにも筆者はコスタリカのサッカーを否定しているわけではない。5バックでラインコントロールをすることや、いくら引いて守っているとはいえ競合相手に少ない失点でおさえることが難しいことは知っている。ただ、日本とは目指す試合運びが大きく異なっていたということは間違いない。

我々はこの4年間、守り切って勝つサッカーを志向してきたのか

断じて違うだろう。

4年前の南アフリカではアウェーのW杯における初勝利や初のグループリーグ突破といった経験をすることができた。しかしそのプレーモデルは必ずしも我々が期待するようなものではなかった。

では南アフリカを受けてこの4年間我々はどのように過ごしてきたのか。ザッケローニの選択はいわゆる現在の我々の共通認識である「自分たちのサッカー」をするという我々が歓迎する内容であった。それを我々は幸福な4年間として享受してきたはずである。その証左として、この4年間でアジアカップを制し、東アジアカップを制し、韓国には一度も負けていない。こんな素晴らしい4年間がこれまでにあっただろうか。

コスタリカは確かに素晴らしかった。そこに異論はない。ただ、コスタリカの姿を見て「素晴らしい去り方」と捉え て日本も見習うべき、という論調には筆者は同意できない。

これからの4年間を過ごすにあたって

これまで通りの「自分たちのサッカー」は貫いてほしいとともに、もはや世界のサッカーは「なんでもできないとダメ」の様相を呈している。当然、ポゼッションが思うようにいかないときもあるだろう。そんなときに、トランジションを活用するサッカーができるか。次の4年間で追求していくべきひとつのテーマであろうと思う。

また、ポゼッションを志向するプレーモデルの選択は、アジアという特性も少なからず影響している。日本はアジアでは無双を誇っており、必然的にポゼッションする時間が多くなる。ドン引きしてくる相手に勝つために、日本はある程度ポゼッション志向のサッカーを少なくともアジアでは展開する必要がある。

このアジアという地理的特性を、我々は歓迎すべきであるし、おおいに活用すべきである。

コスタリカやギリシャなどがなぜポゼッション志向ではないのか。それは、W杯予選にひしめく強豪たちとの激戦を勝ち抜くために、ポゼッション志向を選択する余裕がないためである。予選を勝ち抜くための知恵として、長いことをかけて国民にも刷り込まれていったプレーモデルが引いて守ってカウンターというサッカーなのである。

日本は、少なくとも現時点では、プレーモデルを選択することができるという幸運に恵まれている。

J2でプレーモデルを確立してJ1昇格1年目で優勝した柏や広島のように、我々にはポゼッションを公式戦を通じて確立する時間が与えられている。これを活かさない手はない。

まだ次なる監督は定まっていないが、また4年間楽しい冒険をさせてくれる監督であることを切に願う。ロシアの地で「自分たちのサッカー」で歓喜をあげられるように。



tags コスタリカ, ザッケローニ, トランジション, ポゼッション, 日本代表, 自分たちのサッカー


ブラジルをブラジルたらしめているものは何か。

「ブラジル人」と聞いて何を思い浮かべるだろうか。多くの人が「サッカー」と答えるのに違いない。そして言下には「サッカーが上手い」という共通認識がある。本書にも以下のような記述がある。

"ブラジル人サッカー選手"という言葉は、"フランス人シェフ"や"チベットの僧侶"と同種の慣用句だ。生来の才能とは別に、国籍が職業上の権威や適性の決め手となっている。(P.24から引用)

では、ブラジル=サッカー(フチボウ)という印象はどこに端を発しているのか。ブラジル人はいつから我々が想像するような「ブラジル人」であったのだろう。これは歴史学や社会学の領域でもある「文化」という得体のしれない存在に迫る壮大な問いである。

この壮大な問いに挑戦しているのが本書『フチボウ』である。ジャーナリストであり数学者でもあるアレックス・ベロスが実際にブラジルの各地を訪問し、ブラジルと文化とフチボウについての歴史を紐解くノンフィクション。ペレやガリンシャなどの有名なプロフットボーラーの逸話もあれば、自動車でサッカーをするアウトボウと呼ばれるとんでもない亜種のフチボウ、赤道がセンターラインと重なるスタジアムなど、フチボウのあらゆる側面を紹介する500ページを超える大作となっている。

マナウスで行われる美女コンテスト兼サッカー大会

アマゾナス州の州都マナウス。2014ブラジルW杯の会場にもなっている都市ではペラダン(ペラドン)と呼ばれる特徴的なサッカー大会が毎年開催されている。著者が取材した2000年時点で500チームが参加、現在では1000チームに達するとも言われている。

ペラダンへの参加条件の1つが、クイーンを連れてくること。そしてそのクイーンは水着審査も含めた美女コンテストに参加するという。この美女コンテスト、大会を華やかにするためという要素もあるが、それだけではない。

大会にはワールドカップと同じ形式が採用されている。参加チームはグループリーグを戦い、ノックアウト方式の決勝ラウンド進出をめざす。優勝したチームには五千ポンドが、<ペラダン>のクイーンには新車が贈られる。

(中略)

両者は別々に進められるが、独立しているわけではない。その逆だ。<ペラダン>の最もユニークな点 ― であると同時に厄介な点 ― は、サッカーで敗退してもクイーンの力で復活する可能性が残されていることなのだ。
「つまり、こういうことだ」とアルナウド(筆者注:大会運営者)は説明をはじめる。「美女コンテストで最後の十六人に残ったチームの間で、もう一度ペラーダ(筆者注:自由なサッカーの総称)の対戦が組まれ、そこで一位になったチームには、<ペラダン>の決勝ラウンド進出のかかったプレイオフを戦う権利があたえられる。つまり、魅力的なクイーンを連れてくることには、きわめて大きな意味があるということだ。」(P.358-360から引用)

この自由さこそがブラジルの伝統的な特徴でもある。

クラブチームによる全国選手権が始まったのは1971年。この大会のレギュレーションはしょっちゅう変更されている。

  • 1974年:順位を決定する要素のひとつにチケットの売上総額が使われる
  • 1975年:2点差以上の点差をつけて勝利したチームに勝ち点1が加算
  • 1978年:・・・はとても説明しきれないくらい複雑で負けても負けても優勝のチャンスがある

この「緩さ」はある意味日本人が見習うべき部分かもしれない。以下の記述を見てほしい。

すべてのチームがホームアンドアウェイで一試合ずつ戦い、最高の成績を収めたチームを優勝とする方法 ― 欧州の主要国でごく普通に用いられている方法 ― は、一度も採用されたことがない。また、リーグ戦があるところには、必ず上位チームによるノックアウト方式のラウンドがある。"決勝"のない選手権は、ブラジル人の理解の範疇にはない。(P.428-429から引用)

Jリーグの2シーズン制とポストシーズンの採用で日本人が揉めていると聞いたらブラジル人はどのように思うだろうか。

ニックネームやファーストネームで選手を呼ぶブラジル

ジーコやペレが本名ではなくニックネームであることはよく知られている。ではなぜブラジルではニックネームが使われているのか。これには諸説ある。

かつて黒人や貧困層の白人を差別して裕福な層だけでフチボウをやろうとするために、富裕層は「名前を書けなければ試合には出られない」というレギュレーションを設けた。識字率の低い貧困層は長い名前を書けなかったため、名前を変えるという手段に出た。長かった名前を「シウヴァ」など簡単な名前に変え、試合に出場した。というのが影響しているという説。

奴隷制の名残としてニックネームが根強く使われている。という説。

などもろもろあるが、ニックネームで呼ぶのはブラジルの気取りのない社会の表れであると簡単に結論づけている人も多い。ブラジル人は細かいことは気にしないのである。
「ブラジルが文明社会に貢献していることがあるとすれば、温かみのある人間を世界じゅうに送り出していることだ」(P.325から引用)

ブラジル人は、自分の名前やニックネームのスペルを気にしない。ザガロがZagaloでもZagalloでもどちらでも良いと本人も思っている。

このエピソードから知れるのは、不正確に対する几帳面の勝利、もしくは常識に対する厳密さの勝利 ― ではなく、ブラジルの文化がいかに口承的なものであるかということなのだ。(P.331)

本人だと分かれば何でも良い。だからニックネームもよく変わる。ジュニーニョが2人いると区別がつかないから、サンパウロ出身のジュニーニョはジュニーニョ・パウリスタ。ペルナンブコ出身のジュニーニョはジュニーニョ・ペルナンブカーノになる。ただし、ジュニーニョが2人いるからと言って、彼らを苗字で呼ぶことは絶対にない。

崩れつつある伝統的なブラジルのフチボウ

自由さはブラジルのフチボウの専売特許でもあったが、グローバル化の進む現代社会において必ずしも維持できるわけではなさそうである。

終章のソクラテスのインタビューでこのような話がある。

フチボウが変わったのはブラジルが変わったからだ、とソクラテスは話をはじめる。「ブラジルは都会的になった。以前は、どこでサッカーをしようが一向にかまわなかった。通りだろうが、どこだろうがね。それがいまではサッカーをする場所が見つからない。つまり、最近はどんなかたちでスポーツに関わるにせよ、そこでは何かしら規格化がおこなわれているということだ」(P.504から引用)

ブラジルの規格におさまらないサッカーは長年世界でリスペクトされ最強の名をほしいままにしてきた。しかし昨今の科学やゲーム分析の発達によって、幼少期からの養成機関で育てられた欧州のプロフットボーラーを擁する各国に敵わなくなってきている。

2014年に開催されるブラジルW杯はすべての国民が心待ちにしている行事かと思いきや、前年のコンフェデのデモや各種報道を見ていると必ずしも歓迎されているわけではなさそうである。

もちろん、ブラジルからストリートサッカーがすぐに失われるかといえばそんなことはない。今のフチボウが一朝一夕で作られたものではないのと同様に、変化が全土に伝わるのは非常に緩やかだろう。これが創造的破壊につながるのか、もしくは失われた伝統を懐かしむことになるのか。

2014年ブラジルW杯、そして2016年リオ五輪での母国の活躍が重要な分水嶺になることは間違いない。

重要な大会が連続で控えているブラジルという国を、そしてブラジルのフチボウについて知るために、本書はうってつけである。



tags フチボウ, ブラジル

サッカーの試合の中にフラクタルが存在することを実証。

2014年2月、山梨大学の木島章文准教授、同大の島弘幸准教授、北海道大学の横山慶子博士研究員、名古屋大学の山本裕二教授による論文Emergence of self-similarity in football dynamics(英語、PDF)がEuropean Physical Journal Bにオンライン掲載された。
日本語のプレスリリース(PDF)

横山慶子研究員と山本裕二教授は2011年にも論文「サッカーゲームにはハブがある」を発表しており、サッカーと複雑系科学の関係を実証的に明らかにする先進的な研究をしている。
参考:[書評] サッカーゲームにはハブがある

今回発表された論文では、サッカーの試合における複雑なダイナミクスの中にフラクタルが存在することを実証した。

フラクタルといえばヴィトル・フラーデ教授による戦術的ピリオダイゼーション理論にも登場する概念。フラーデ教授は「サッカーはカオスであり、かつフラクタルである」という言葉を残しているが、ここでいうフラクタルと本論文におけるフラクタルは含意レベルが異なっている。

戦術的ピリオダイゼーション理論では、プレーモデルが金太郎飴のように浸透している(自己相似系で表出する)といった意味合いや、トレーニングと試合では同じ状況が出現するようにオーガナイズする必要があるといった文脈でフラクタルという言葉が使われている。

一方で本論文におけるフラクタルはよりアカデミックだ。本エントリーで論文の内容を紹介したい。

フラクタルはどこに出現するのか

研究グループでは、サッカーで対戦する両チームの「支配領域」の前線位置とボールの位置についてのデータを取得した。対象の試合は2008年のクラブワールドカップのガンバ大阪VSアデレード・ユナイテッドおよび2011年のJリーグの浦和レッズVS横浜Fマリノスの2試合である。

支配領域については執筆者のグループが作成したこの動画を参考にしてほしい。

1人の選手の支配領域を20メートル(ピッチの横幅68メートルを3〜4人でカバーするため)と仮定し、ピッチ上の22人の影響力を時系列に表現したものである。

サッカーには「流れ」が存在し、また「相手を押し込む」などの表現があるが、それを可視化したものであると考えればよい。

この支配領域の変動における前線位置(frontline)の時系列の変化をグラフに取ると下図のようになる。

fractal01.jpg
前述の論文P.5のFig.3から引用


一見無造作な波形に見えるが、実はそうではない。次のグラフを見てほしい。異なる時間帯の波形を横幅3倍、さらに3倍と順に拡大して示したものである。これを見ると、横幅が異なるにもかかわらず、波形が似ていることが分かる。ここに自己相似形(フラクタル)が出現しているのである。

fractal02.jpg
前述の論文P.5のFig.4から引用


また、この波形が増加や減少、つまりどちらかのチームが押し込んでいる状態は持続性があり、その時間は2,30秒ということも判明している。さらに、押しこむ際には0.5秒〜5秒くらいはべき乗則に従うように一気に押しこむことが特徴として見られ、それ以降は2,30秒まではゆるやかに流れが持続する動きが確認されている。

サッカーに流れがあることや、一気に押しこむ様子が見られることは経験的に知っていることであるが、それを学術的に証明したことに価値がある。

より学術的に言えば、非整数ブラウン運動に準拠(読み飛ばし可)

上述のグラフを紐解くと、前線位置(frontline)の変動は非整数ブラウン運動に準拠していると論文で結論づけている。

非整数ブラウン運動とは、自己相似性や長期依存といった特性を持つ確率過程(時間とともに変化する変数)のことである。その波形はハースト指数(H)と呼ばれる値で決定され、0<H<0.5では持続性はなく、0.5<H<1で長期依存(持続性)が確認できる。論文で示された前線位置(frontline)に関する波形のハースト指数は0.7であり、長期依存があることが分かる。また同時に、2ーハースト指数=フラクタル次元であるため、当波形のフラクタル次元は1.3であることも分かる。

有名なコッホ曲線のフラクタル次元は1.26なので、前線位置(frontline)グラフの図形としての特徴(空間のスカスカ度)はコッホ曲線に似ているようである。

koch curve.jpg


フラクタル次元に関してはYahoo知恵袋のこのQAが分かりやすい。コッホ曲線のフラクタル次元がなぜ1.26であるのかの解説が分かりやすく書かれている。

この結果が何に応用できるか

さて、科学に興味がある人は「サッカーゲームにはフラクタルが内在していた!」というだけでワクワクするだろうが、現場レベルではこの知識は現状役に立たない。これを活用できるレベルに押し上げるならば、例えば次のようなことが実証的に明らかになる必要がある。

  • 波形の持続性が30秒を超えた場合には決定機を作り出す確率が高くなる
  • 波形の自己相似性が多く発見されるチームほど勝率が高い
  • 相手チームに波形の自己相似性を作らせないことで被シュート数が少なくなる

上記のようなことが分かれば、波形を作るための前線位置の状態を具体的なポジショニングなどに落としこんで考えることも可能かもしれない。また、(これは現場レベルでは関係ないかもしれないが)ゲーゲンプレスなどのネガティブ・トランジションの手法がなぜ有効なのかの要因を明らかにする一端になるかもしれない。

試合中のデータを精緻に拾うことが可能になり、サッカーを数学的に斬る研究が今後ますます広まっていく。デンマークのサッカー研究者(運動生理学)のヤン・バングスボは「サッカーは科学ではないが、科学が役に立つかもしれない」と言っている。まさにその通りで、科学は現実世界に適用した場合には必ずしも万能ではないが、科学が助けてくれることもある。

本論文のような研究が今後も継続されますように。



tags ゲーゲンプレス, フラクタル, 戦術的ピリオダイゼーション理論, 自己相似性, 複雑系, 非整数ブラウン運動

4月21日に御茶ノ水で開催された畑喜美夫氏による「ボトムアップ理論で子どもの自主性を伸ばす!!」セミナー(主催:ジュニアサッカーを応援しよう)を聴講してきました。自主性を開放するアプローチとして有効なボトムアップ理論についてセミナーを通じて改めて考えたことをまとめておきます。

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ボトムアップ理論とは何か

ボトムアップ理論については拙ブログのボトムアップ理論はプレイヤーズ・ファーストを具現化する新しい指導の形に詳しく書きましたのでよろしければご覧ください。冒頭の紹介を引用しておきます。

プレイヤーは練習メニューから公式戦に出場するメンバー、戦術、選手交代などをすべて自ら決定していく。指導者は必要に応じて問題提起などを対話を通じて行いながら、プレイヤーの可能性を引き出すファシリテーターとして機能する。

こういった選手の自主性は部活の中だけで養われるものではなく、日常生活すべてを通じて涵養されるものです。普段から自主的に動けない選手が部活や試合の中で突然自主的になれるはずがありません。畑さんもセミナーの中で次のようにおっしゃっていました。

サッカーはサッカーだけで上手くなるのではなく、サッカーは日常生活を含んだ全てで上手くなる。

ところがこれを聞いて「なんか聞いたことあるフレーズに似ているぞ」と思った方も少なくないのではないでしょうか。そうです、村松尚登さんが戦術的ピリオダイゼーション理論を説明するときに使われている「サッカーはサッカーをすることで上手くなる」というキーフレーズです。ちょうど畑さんのセミナーの1週間前に村松さんの「バルサ流育成メソッドを学ぶ!」セミナー(筆者のセミナーレポート)を聞いたばかりということもあり、両氏の主張にどのような違いがあるのか自分なりに考えてみました。

戦術的ピリオダイゼーション理論で取り扱っている要素は拡張要素

まず、戦術的ピリオダイゼーション理論について簡単な図をもとに整理してみます。

戦術的ピリオダイゼーション理論では、サッカーを要素還元的に分解するのではなく総体として捉えることを提唱しています。つまり、技術、戦術、フィジカルといった要素を個別に鍛えてもサッカーという複雑系システムをプレーするためには十分ではないということです。非線形的な言い方をすれば、「全体とは部分の総和以上の何かである」ということになります。

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ここで取り扱っている総体としての「サッカー」に含まれている技術、戦術、フィジカルなどは、練習をすることで積み上げていくことができます。積み上げようとトレーニングをすれば、積み上げの程度に差こそあれ、「減る」ということはありません。

つまり、戦術的ピリオダイゼーション理論で取り扱っているのは、トレーニングをすることで積み上げていくことができる「拡張要素」であるということができます。

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ボトムアップ理論で取り扱っている要素は平衡要素

次に、ボトムアップ理論です。

ボトムアップ理論では、サッカーは日常を含めた一連の活動の一部として捉えます。日常生活の中で準備をする大切さを体感したり心を整えたりすることでサッカーに臨む質も高まる、という位置づけです。

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ここで取り扱っているのは技術、戦術、フィジカルなどではなく、それらをトレーニングするための姿勢やモチベーション、試合における平常心など「気持ち」に分類されるものです。気持ちとは皆さんご存知の通り、トレーニングすれば必ずしも積み上がっていくものではなく、増えたり減ったり、上がったり下がったりすることが通常です。

つまり、ボトムアップ理論で取り扱っているのは、必ずしも積み上げることができない「平衡要素」であるということができます。

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両者は異なる要素にアプローチしている

ここまでの整理で分かるように、戦術的ピリオダイゼーション理論とボトムアップ理論は扱っている領域が異なります(もちろん、戦術的ピリオダイゼーション理論でメンタル面のトレーニングもできていると思いますが、ここでは中心的に取り扱っている領域という意味で書いています)。ですので、どちらが優れている/劣っているといった比較ができるものではありません。

畑さんはボトムアップ理論を推奨する理由として『子どもが自ら考えて行動する力を引き出す 魔法のサッカーコーチング ボトムアップ理論で自立心を養う』(筆者のレビュー)にて次のように語っています。

近年、指導者の大半がテクニックや技術論、戦術論にばかり目がいって、チーム指導のベースとなる組織論についておざなりにされている方が多いと思います。インターネットで検索すれば、バルセロナやマンチェスター・ユナイテッドの技術指導の情報は、簡単に手に入れることができます。世界中の強豪チームの指導方法も知ることができます。

でも、その通りに指導したら、どこでもバルセロナやマンチェスター・ユナイテッドのようなチームになれたら苦労はありません。全国の指導者はもう頭打ちの状況で、何か打開策はないか悩まれているんだと思います。

ですから、話題のテクニックや技術論、また戦術論に飛びつきがちですが、大切な指導目的や哲学、組織論について、いま一度、見直しが必要ではないかと思います。(P.130-131から引用)

企業経営においてもモチベーションやコミットメントなどは永遠の課題です。皆さんご存知のことと思いますが、誰かに「やる気を出せ」と言われてやる気が出る人がいないことから分かるように、平衡要素は意図的にコントロールすることが難しい要素です。人々の気持ちにアプローチするのは非常に困難が伴うのです。

ボトムアップ理論が昨今注目されているのは、サッカーにおいてこれまでなかった「平衡要素」にアプローチするメソッドであるからです。技術や戦術だけを取り扱っても何かが足りない。そう気付き始めている潮流にボトムアップ理論がピタリとハマった、そんな感じだと思います。

サッカーが好き、その気持ちを忘れないために

雨で部活が休みになって「やったー!」と喜ぶ。これは本来的に何かおかしいはずです。そもそもサッカーが好きでサッカーをやっているのに、それができなくなって喜ぶとは本末転倒です。畑さんもこれはなにかおかしいとセミナーでおっしゃっていました。

サッカーをやりたいという内発的動機づけをどうにかして呼び起こす。これは週の練習回数や練習時間なども影響していると思いますが、サッカーをプレーしている人がいま一度「サッカーが好き」という原点に立ち返ることができれば、日本のサッカーシーンも様変わりするのではないでしょうか。

ボトムアップ理論は万能ではありませんが、その世界観は知っておいて損はないと思います。


セミナーで話していたことと概ね似た内容が2枚組のDVDとして販売もされています。
1枚目が理論的な背景などの紹介、2枚目が畑さんと他2名の方による座談会でボトムアップ理論についてざっくばらんに語っている内容となっています。



tags プレイヤーズファースト, ボトムアップ理論, 平衡要素, 戦術的ピリオダイゼーション理論, 拡張要素, 畑喜美夫, 自主性

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プロフィール

profile_yohei22 yohei22です。背番号22番が好きです。日本代表でいえば中澤佑二から吉田麻也の系譜。僕自身も学生時代はCBでした。 サッカーやフットサルをプレーする傍ら、ゆるく現地観戦も。W杯はフランスから連続現地観戦。アーセナルファン。
サッカー書籍の紹介やコラム、海外現地観戦情報をお届けします。

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