2013年12月の記事一覧

2013年2月にブログ開設して、書籍は42冊、雑誌は4冊のレビューを書くことができました。レビューを書いていないものも含めれば50冊以上は読了したことになります。その中から個人的に素晴らしいと感じた書籍を5冊、ランキング形式で紹介したいと思います。

あくまで、2013年に発売したものではなく、2013年に僕が読んだもの、ということでご理解ください。


5位 『I AM ZLATAN ズラタン・イブラヒモビッチ自伝』

ここまで惹きこまれた選手本は初めて。イブラヒモビッチの素の姿が、イメージにぴったりの悪童的な口調で語りかけるように描かれている。怖いもの知らずといった感じで、グアルディオラをボロクソにこけおろしているくだりは善悪を超越してスカッとする。読後感も決して悪いものではない。

イブラヒモビッチに少しでも興味がある人であれば読んで損はない一冊。

筆者のレビューはこちら



4位 『争うは本意ならねど』

我那覇和樹のドーピング冤罪事件のドキュメンタリー。我那覇和樹のドーピング冤罪に関しては表面的にニュースで見聞きした人もいるだろうが、その実態まではなかなか知られていない。本書では、Jリーグという権力の巨塔に不本意ながら立ち向かったチーム我那覇の戦いの記録が克明に描かれている。

全てのサッカーファンに読んでもらいたい、ジャーナリスト木村元彦の渾身の一冊。

筆者のレビューはこちら



3位 『4-4-2ゾーンディフェンス セオリー編』

footballhackというサッカーブログの管理人さんによるKindle本。4-4-2ゾーンディフェンスのみならず、サッカーの戦術について学びたい人は一度は読んでおいた方がよい戦術指南書である。図を多用し、スペースについての解説が非常に分かりやすい。

表面的ではなく、戦術について真剣に学びたい人にオススメの一冊。

筆者のレビューはこちら



2位 『バルセロナが最強なのは必然である』

サッカーを要素還元主義ではなく、全体論的、複雑系、カオス、自己組織化、再帰的であると説いた解体新書。そんな見方があったのかと、目からうろこが落ちまくること必至である。著者のオスカル氏の続編『バルセロナの哲学はフットボールの真理である』も発売されたが、まずは本書を先に読んでおいたほうが良い。

ニューサイエンスの観点からサッカーを解説した史上最高の一冊。

筆者のレビューはこちら



1位 『テクニックはあるが、「サッカー」が下手な日本人』

サッカーはサッカーをすることで上手くなる、という禅問答的な真理に迫る村松尚登氏の冒険譚。スペインサッカー強さの秘密として、リーグ戦文化の重要性や戦術的ピリオダイゼーション理論について詳しい解説が書かれている。賢さや駆け引きを養うためには機能が限定されたトレーニングメニューでは意味がなく、サッカーにおける大切な要素を全て含んだ場面(極論をすれば試合自体)で涵養していくことが重要であることがよく分かる。

特に育成や指導に携わる立場の人には是非とも読んでもらいたい一冊。

筆者のレビューはこちら



おまけ 『ボトムアップ理論はプレイヤーズ・ファーストを具現化する新しい指導の形』

拙ブログの中で圧倒的なアクセス数を記録しているボトムアップ理論に関する記事。ご愛顧ありがとうございます。上から押し付ける指導ではなく、内発的な動機づけに着目してボトムアップやプレイヤーズ・ファーストを指導に組み込もうとしている方にぜひ一読していただきたいです。
ボトムアップ理論はプレイヤーズ・ファーストを具現化する新しい指導の形




ランキングを振り返ってみて、2013年発売の書籍は少なかったですね。すみません。来年は2014年発売の書籍を読むことが多くなるでしょうから、こんなことにはならないと思いたいです。

来年も、良いサッカー書籍にめぐりあえますように。全ての著者の皆さまに感謝いたします。



tags 4-4-2ゾーンディフェンス, I AM ZLATAN, サッカー書籍ランキング, テクニックはあるが、「サッカー」が下手な日本人, バルセロナが最強なのは必然である, 争うは本意ならねど


この本が世にでること自体が重要、とのことだが。

cakesの連載「フットボールインテリジェンスの磨き方」(冒頭のみ無料、記事全文は有料)にて著者の中西哲生氏は本書の意義について対談で次のように語っている。

この本が出ること自体がポイントです。この題名の本が書店に並ぶ、ということが重要なんです。
(中略)
『日本代表がW杯で優勝する日』というのを目にして、みんなが「あ、いつか優勝する日が来るんだ!」と意識してくれたらいいなと思ってます。よく、紙に目標を書いて貼っておくといいって言うじゃないですか。

確かに集団的無意識としてW杯のベスト8で満足しないということは、2002年のベスト16での敗北を顧みても重要であることのように思える。

しかしそうであるならば、なおのこと中西哲生氏には描き下ろしでそのストーリーを描いてほしかった。

読んでいてハテナがつき続け、あとがきで氷解する

中西哲生氏はテレビでのコメントを聞いていても、川崎フロンターレに在籍した現役時代にJ2からJ1に昇格したノンフィクションを描いた『魂の叫び―J2聖戦記』を読んでも、心は熱く、思考は冷静且つ論理的に考える人物であると思っている。

本書の目次は以下のとおりで、一見したところでは読み進めるとW杯優勝への道筋が徐々に見えてくる構成のように感じられる。

  1. W杯優勝は、無謀な夢ではない
  2. 日本代表が秘めた知られざる強み
  3. フットボール・インテリジェンスを持て
  4. W杯優勝のための真の課題
  5. W杯優勝挑戦元年としての2014年

しかし内容はそのように作られていない。決して論理的とはいえない構成であるし、内容も重複しているものが多い。そして何より「〜〜だからW杯で優勝できる」というストーリーが感じられないのである。

中西氏らしくないと思いながら読み進め、あとがきでついに腹落ちした。

本書は2011年8月から、朝日新聞デジタル版で50回以上にわたって連載してきたコラム「SPORTS 日本ヂカラ」をもとに加筆・修正したものです。(P.212から引用)

そう、何を隠そうコラム集だったのである。

そう言われれば、コラム程度の長さに全ての節がまとめられている。コラムであれば、内容が重複することがあるのもうなずける。いくら加筆・修正したといっても、もとがコラムであれば内容をつなげてW杯優勝に導くのは無理という話である。なぜなら、W杯優勝というストーリーを描くために必要なのは「連載」であり、「コラム」ではその1回だけを読んだ人でも内容が分かるように書かなくてはならないのでストーリー性を持たせられないからである。

少し残念である。どうせなら、中西氏なりのストーリーで書き下ろしたものを作り上げ「W杯優勝」というストーリーを作ってほしかった。編集の意向なのかもしれないが、これでは片手落ちである。

コラムだと思って読めば、非常によくまとまっている

コラムで分かるのは、執筆者の考え方のバックボーンであったり流派であったり、表現としてのおもしろさであったり視点の提供であったり、そんなところだと思っている。

そういった視点で読めば、今度はおもしろく思えるから不思議だ。もともと筆力もあるし考えも視点も視聴者目線で提供するのも得意なので当たり前といえば当たり前。

中村俊輔、遠藤保仁という日本が誇る至高のゲームメイカーとの対談がそれぞれ収録されており、これも読み応えがある。



tags 中西哲生, 日本代表がW杯で優勝する日

サッカーの育成やトレーニングの提供場面においてボトムアップ理論や戦術的ピリオダイゼーション理論が徐々に普及し始めていると聞く。

ボトムアップ理論については拙ブログのこちらの記事で紹介しているので参照してほしい。
ボトムアップ理論はプレイヤーズ・ファーストを具現化する新しい指導の形

戦術的ピリオダイゼーション理論については、『バルセロナの哲学はフットボールの真理である』(筆者のレビューはこちら)の著者オスカル氏が次のように説明している(オスカル氏の記述も別の記事(スペイン語)からの引用であるようだ)。

サッカーというゲームに内在する重要な局面やファクターを分断せず、と同時に、このスポーツに内在する不確実性をしっかりと認識したメソッド(P.40から引用)

戦術的ピリオダイゼーション理論に関してさらに知りたければ村松尚登氏のブログ「日本はバルサを超えられる」や著書『テクニックはあるが、「サッカー」が下手な日本人 ---日本はどうして世界で勝てないのか?』(筆者のレビューはこちら)を参照してほしい。

 

手放しにこれらの理論を賞賛するわけではないが、育成はいつの時代も試行錯誤だし、これらの理論はメソッドではなくメソドロジーであるという点で理論の普及そのものは喜ばしいことであると考えて良いだろう。

教えずに伸ばすのか、教えて発達を支援するのか

どちらの理論も「サッカーをサッカーとして捉える」ことを前提としており、そこに横たわる共通の理念として「プレイヤーの判断力を大切にする」ということがある。

判断力を養うためにはどうすれば良いのか。まずは、機能や目的がサッカーの本質から意図的に狭められたトレーニングではなく、試合でも適用できるプレーモデルの構築が重要テーマとなる。本質的でない場において判断のトレーニングをしても、それが試合で役立たないからである。

次に、指示をすることや教えることを控えることが重要とされるようになる。ジュビロ磐田の黄金期を監督として支えた鈴木政一氏は著書『育てることと勝つことと』の中で次のように語る。

ベンチからは大声で、「サイドチェンジ!」と指示がとぶ。すると、子どもは言われた通りに蹴る。それが、たまたまつながり、ゴールに結びついた。
「ナイス、ゴール!」。子どもは、サイドのスペースを観ることもなく、相手との駆け引きもないままに、ベンチからの声を忠実に守る。そこに子どもの判断など入り込む余地はない。
この子が上の年代のクラスにいったときに、観ることも、判断することもできないような指導をしてはいけない。ではどうすればよいか。アンダー9の段階では、自分の観える範囲で、自分で判断して、一番よいと思うプレーができれば充分である。(P.126-127から引用)

もちろん、ボトムアップ理論でも「教えるな」とは説いていないし、戦術的ピリオダイゼーション理論でもそれは同じである。目的は判断力を養うこと。そのために教えることや介入が必要であれば教えることが必要となる。

ところが、両理論が有名になってきたからこその弊害として、上辺だけが取り沙汰され、「教えないことが正しい」という伝わり方がされているように見受けられる。

この理解は完全に間違いで、村松尚登氏は小澤一郎氏との共著『日本はバルサを超えられるか ---真のサッカー大国に向けて「育成」が果たすべき役割とは』の中で次のように語っている。

まったく教えないというのは指導放棄になってしまいます。単に放置するだけでは基本の習得すらままならず、子どもの遊びの延長になってしまう危険性もある。そのためにも選手が自らトレーニングをオーガナイズできるためのノウハウの提供は必要で、もしかすると自分たちでトレーニングを組み立てる選手たちを対象とした「指導者選手講習会」の需要が出てくるかもしれません。
(中略)
私が今春まで指導していたバルサスクールでは、誤解を招くかもしれませんが「教えすぎている」と言っていい状態です。ただしそれは、ゲーム形式の練習を通じて、判断材料を与え、教育するという感じの詰め込みで、一般的なつめ込み指導とは異なると自負しています。(P.66-67から引用)

新しい指導法や理論が出てきたときには必ずといっていいほど拒絶反応を示したり意図的に批判したりする人が出てくるので、教えることと教えないことについては慎重に考え方を伝えた方がよいと感じている。

教える加減としての最近接領域

教える加減として役に立つのが、旧ソ連の心理学者であるヴィゴツキーが提唱した発達の最近接領域という考え方である。ヴィゴツキーについては、『ヴィゴツキー入門 (寺子屋新書)』が詳しい。

発達の最近接領域を僕なりの理解も含めてかいつまんで説明すると、人には、

  1. 教えなくてもできること
  2. 足場をかけ、やり方を教えてあげればできること
  3. 足場をかけてもできないこと

が存在しており、このうちの2.が発達の最近接領域と呼ばれる領域である。

要は、今できることに「近接」しており、自主的に解決できなくても助けを借りることでできるようになる領域を指す。ヴィゴツキーは、発達と教育の関係において、この最近接領域に働きかけることで発達領域を引き上げていくことが重要であると説いている。

これを数学で例えてみればこういうことである。
小学6年生に方程式の問題を出してもまだ解くことができない子どもが多いだろう。しかし、公式を教えれば解くことができる子どもが多いのではないだろうか。この公式に自ら気づけということは無理な話で、であれば解法である公式は「足場」として早めに教え、具体的な解について、あるいは応用問題については自ら考えさせるということだ。

サッカーに適用すれば、プレイヤーにはプレーの選択肢を広げてあげることでグッと伸びる瞬間が存在している。そのための足場を対話を通じてかけてあげる、といったイメージであろうか。この点においても、具体的なプレーを教えるというよりは、数学で言えば公式、つまりプレーの選択肢ややり方そのものをやんわりと指南してあげることが肝要である。



tags ボトムアップ理論, ヴィゴツキー, 戦術的ピリオダイゼーション理論, 村松尚登, 発達の最近接領域


前著に続きサッカーを複雑系やカオス理論から斬る至高の哲学書。

「サッカーというものをシンプル化してはいけない」(P.54から引用)

昨今、サッカーやサッカーにおける戦術をすぐに理解できることを謳った解説本が横行している。マーケットにそのような需要があることの裏返しであるから書籍そのものを否定するわけではないが、複雑系であるサッカーのいち側面だけを切り取って理解しようとしてもそれは無理な話である。「物事をシンプル化するとは、問題を解決することだと思われているようだが、実際は問題を引き起こす行為だといえる」(P.55から引用)のである。

本書を読んで生まれるのは、むしろ消化不良感である。そして、その消化不良さゆえに生まれる探究心である。僕がこれまで見知った中では最も難解で哲学的な表現でサッカーを語るフアン・マヌエル・リージョは本書の刊行に寄せて次のように語っている。

唯一明確なのは、なにも明確ではないということ。それがオスカル・カノ氏の本のベースとなる。 本書を読むことで、読者はさらに疑念を抱くことになる。それと同時に、疑念を抱くということが最も適切な肯定の仕方であることを認識し、喜びを感じることであろう。(P.18-19から引用)

前半は複雑系の解説

前著『バルセロナが最強なのは必然である グアルディオラが受け継いだ戦術フィロソフィー』(筆者のレビュー)を読んだ人であれば、前半部分(チャプター2まで)は既読の内容も多いだろう。複雑系は真理であるがゆえに枝葉の議論は少なく、どうしても内容が重複するからである。

その内容をかいつまんで紹介すると、以下のようになる。

  • サッカーにおいては選手こそが主役であり監督にできることはわずかである
  • 監督の仕事は選手のポテンシャルを引き出すことをサポートすることである
  • 分かりやすい説明をするために物事を断片化したり複雑さを取り除いたりすることをやってはいけない
  • チームを構成する選手(の特徴)に即してプレーモデルを構築する
  • プレーモデルの持つ構成と機能はいったん破壊されても自己組織化のプロセスを経て再構築される仕組みを持つ(ので、再帰性を担保できるようなトレーニングを行う)

前著やその他の複雑系の学習によって学んだことがあったとしても、本書のひとつひとつの言葉はずしりと心に響く。この手の話は定期的に読み返さないといけないと改めて感じた。

後半は大量の図を用いた解説

真理に近づこうとしすぎると、ときにそれが正しいがゆえに実践的でなく、活用することが難解に陥ることがある。本書やオスカル氏の前著が指摘している複雑系の観点からサッカーの真髄に迫ろうとするやり方は僕も正しいとは思うが、その抽象性だけで世界がまわっているわけではない。時にはその俯瞰的なマップを捨てて、具体から踏み込むことが真理に近いということも往々にしてあることだ。

そんな思考の揺らぎがIntroduction「歪められたサッカーの本質」の次の言葉に表れている。

私はこれまで、図やイラストで埋め尽くされたサッカーの練習メニュー本を読むのを避けてきました。それはもしかすると私の過ちなのかもしれません。というのも、そのような本の中にも、サッカーをより深く知るためのヒントが隠されている可能性があるからです。(P.31から引用)

しかし当然のことながら、環境や背景、そして何より選手自身の特徴や選手間の相互関係を踏まえずに練習メニューだけを模倣してもチームに適したプレーモデルには到達できない。単純な練習メソッドでは次のようなことが発生してしまうのである。

多くの練習メニューはサッカーに内在する複雑性を著しく減少させ、事前に何が、いつ、どのようにして起こるのかということが予想できるような練習メニューばかりです。 そのため、サッカーで最も重要な要素である判断力が実際のゲームほど必要ではない状況で練習を行っている場合が多々あります。(P.38から引用)

そこで本書では、

  • 監督ではなく選手や選手間の相互関係こそが主であるという前提に立ち
  • 選手たちの能力を引き出すためのより良いプレーモデルの構築を
  • バルセロナを例にとって多くの図とともに解説する

という構成にすることによって単純な図解とは一線を画す内容となっている。

加えて、オスカル氏自らが考案・実践したトレーニングメニューが15個掲載されている。どの練習メニューも目的こそ掲載されているが細部の選手の動きを指示することはなく、選手の判断力を涵養することが隠されたカリキュラム(ヒドゥン・カリキュラム)であることが分かる。と同時に、練習には多くのプレイヤーを同時に登場させながらも各プレイヤーのプレーするエリアを限定していることから、本書の原題の「ポジショニングサッカー」における「ライン」という考え方を実践的に会得することができるメニューであるともいえそうだ。

「知的自由」という新しい言葉

本書の中で何気に僕がもっとも惹かれた表現が「知的自由」という言葉である。

効果的なパスが連続することで、常にフリーの味方が現れます。そして、そのフリーの選手がタレント性を存分に発揮します。こういった「知的自由」を持った仕組みが、コンスタントに表現されたのがクライフのドリームチームだったのです。(P.96から引用)

前著のレビューでも書いたのだが、いつまでたっても僕が不思議なのが、自己組織化といった生命科学のメタファーを用いるだけでは「ゴール」というプロセスは成立しないので、バルセロナではそれをどのように理解しているのかということである。

メッシが答えだと言われればそれは分かるのだが、どうしてももう少し違う表現で腑に落ちたいな、と。そこで本書で登場したのが「知的自由」という言葉である。今度はもう少しこの言葉を追いかけてみようかしら。



tags バルセロナ, バルセロナの哲学はフットボールの真理である, ポジショニングサッカー, リージョ, 相互作用, 知的自由, 自己組織化, 複雑系

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プロフィール

profile_yohei22 yohei22です。背番号22番が好きです。日本代表でいえば中澤佑二から吉田麻也の系譜。僕自身も学生時代はCBでした。 サッカーやフットサルをプレーする傍ら、ゆるく現地観戦も。W杯はフランスから連続現地観戦。アーセナルファン。
サッカー書籍の紹介やコラム、海外現地観戦情報をお届けします。

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