2013年6月の記事一覧


ガゼッタ・デッロ・スポルトの採点の考え方が分かる。

まず気をつけなくてはならないのは、本書は「観戦術」や「試合で起こるプレーを評価」するための書籍ではない。タイトルにある「プレーのどこを視るか」は少し突っ込みすぎてミスリードしている。イタリアが誇るスポーツ新聞であるガゼッタ・デッロ・スポルトのパジェッラ(採点)はどのような考えで行われているのか、が語られているのが本書である。

科学的ではなく主観と言い切っているところがむしろ好ましい

パフォーマンスの測定はいつの時代でも議論になる、非常に悩ましいプロセスである。

会社にいれば1年ごとに上司に仕事ぶりを評価されるわけだが、果たして本当に正しくパフォーマンスを評価してくれているのか部下にとっては疑問を挟まざるを得ない状況もたびたび発生する。

人材の採用においては面接やその他の手法を用いて応募者の能力を測定するわけだが、これも果たして正しく評価できているのか怪しいものである。応募者にとって、人生の大きな岐路のひとつであるので真剣に評価してほしいと思うだろうが、実際の企業側の立場になればそれが悩ましく難しい課題であることが分かる。

これらの問題は、「評価は正しくされなければならない」という前提にあるし、評価者も被評価者もそれを望んでいる。

ところがガゼッタ・デッロ・スポルトの潔いところは、それをハナから放棄している点である。

『ガゼッタ・デッロ・スポルト』編集部、ダニエレ・ダイエッリ氏はこう言う。
「パジェッラは、"科学的な評価"ではない。基本的には、試合を観たジャーナリストの個人的見解。それだけに、そこには科学的分析とは違う"詩的な要素"が入ってくるんだよ」と。(P.26から引用)

例えば先日のコンフェデの日本対イタリアのガゼッタの本田に対する評価コメント。
「HONDAというHONDA(ONDAはイタリア語で波)が押し寄せ、イタリアは沈みかけた。名前にふさわしくバイクのように走り回った」
イタリアを苦しめた存在として"詩的"に評していることが分かる。

しかし一定の基準のようなものは存在している

とはいえ、完全にジャーナリストの個人的見解に頼りきっているわけではなく、いくつか暗黙の了解的に基準のようなものは存在している。

ひとりの選手が「可もなく不可もないゲーム」をすれば、6。その中でどれだけのプラス要素、あるいはマイナス要素があるか、それによってその日のパジェッラが決まっていく。その基本だけは変わらない。(P.32から引用)

その加点/減点要素としてどのようなものがあるかを、具体例とともにページを割いて説明している。例えば当然のことではあるが、得点や失点に直接絡めば加点/減点となる、という具合である。

あくまでもウンチクという使い方

ガゼッタの採点の裏側(加点や減点の要素の説明と具体例の紹介)の説明に約100ページほどを費やし、以降は
・日本代表の試合をガゼッタの記者が採点したら
・往年の名プレイヤーのガゼッタの採点
・セリエA日本人プレイヤーの採点記録
といった具合で構成されている。

この辺りは好みで好きな箇所を先に読むといった使い方もできる。

冒頭にも書いたように、本書を読んでも実際に自分が試合を観るときに「プレーのどこを視るか」ということのヒントは得られない。あくまで、日本でも有名になったイタリアのガゼッタ・デッロ・スポルトの採点の裏側をウンチク的に知っておく、という使い方に留まるだろう。



tags ガゼッタ・デッロ・スポルト, セリエA, プレー評価


地に足の着いたサッカージャーナリスト小澤一郎氏が世に問いかける育成のあり方。

本書は、現在日本代表レベルまで上り詰めた選手、あるいはこれから上り詰めることがおおいに期待できる選手の育成年代時期に携わった指導者、保護者へのインタビューを通じて人材育成についての良い事例をまとめたものである。

小澤氏の上梓した『サッカー選手の正しい売り方 移籍ビジネスで儲ける欧州のクラブ、儲けられない日本のクラブ』(筆者のレビューはこちら)も読んだ感想として、小澤氏ほど足を使って取材を敢行しているジャーナリストはいないのではないか、と感じている。小澤氏の有料メールマガジン(2013年6月末で休刊予定)も購読しているが、精力的な取材には舌を巻く。信頼できるサッカージャーナリストの1人である。

共通している「育てた記憶がない」という証言

本書に登場する指導者、保護者に共通しているのが「育てた記憶がない」「育てたという認識はない」ということである。

いくら「練習しろ」と言っても人から言われたことは長続きしない。自ら「練習したい」「うまくなりたい」と思わせなければ真の意味での成長はない。ではどうしたら「練習したい」「うまくなりたい」と思わせることができるのか。突き詰めて考えていくと自ずと「教える」ではなく「引き出す」あるいは「引き出す環境を整える」ということが大事だということになる。本書に登場する方々は、「引き出す」ことをハイレベルで実践していることが分かる。

岡崎慎司選手の実母である岡崎富美代さんは、自らも自分のことを120%やりきるという姿勢が自然と子どもたちに伝わり、全力でがんばるということが育まれたという。

福岡大学サッカー部の乾眞寛監督は、短所には目をつむり長所を積極的に褒めることで選手の才能をつぶすことなく引き出し、永井謙佑選手の成長に寄与した。

Jリーグテクニカルダイレクターの上野山信行氏は「ティーチングではなくコーチング」と語り、言葉の定義や使い方まで気をつけた上で「引き出す」ことに注力している。

それぞれ細かな手段は異なるが、大局的に見て選手の内発的な動機づけを促すことが根底にある「指導・育成論」と見て間違いない。

小澤氏も本書におけるインタビューを通じて以下のように語り、主体的な行動や判断が何よりも重要という意見を持っているようである。

サッカーというスポーツにおいて選手に求められることが「自ら」考え、判断して行動し、結果責任を引き受けることである以上、どんなに小さな積み重ねであっても自らの考えや信念に基いてサッカーと向き合うことのできる選手は、小さな成功体験を積み上げながら手応えと自信を手にする。そして、それが次なるステージに選手を押し上げていく。(P.89から引用)

こういうことを考えている指導者が増えればいいのに、と心底思う。

良書であり、小澤氏に期待しているからこそ僕が思うこと

豊富なインタビューと事例により、本書に登場する7名が「育成」に成功したことはよく読み取れる。ではその7名から読者は何を学び取るべきか。

小澤氏は釘を差すように「はじめに」および「おわりに」にて以下のように語っている。

「子供を日本代表にするメソッドが知りたい、ノウハウを教えてほしい」 こういう考え方で本書を手に取った方には大変申し訳ないのだが、ここには『日本代表の育て方』に関する《正解》は一切記述されていない。(P.4から引用)
日本代表の育て方などないことを理解した上で、自分なりの育成・指導法を模索していくことが、日本代表を育てるための第一歩なのだ。その意味で、本書のタイトルには極めて逆説的なメッセージを込めたつもりでいる。(P.228から引用)

これは当然だろう。「正解」がない世界において絶対的に正しい方法などない。

一方で小澤氏は「普遍性」(P.10、P.24、P.44、P.169、P.190)、「普遍化」(P.4)、「普遍的」(P.137)という言葉を好んで使っているように思える。普遍であるということは、それはメソドロジー(方法論)でありメソッド(方法)ではない。メソドロジーは万人に共通して適用できるからこそ価値があり、それは育成とて例外ではない。例えば先の話で、才能や長所の引き出し方は人それぞれで正解がない(メソッドは様々ある)が、「引き出す」ということ自体(メソドロジー)は正しいと言えるだろうし、小澤氏もそのように感じているフシがある。

人材育成の世界は「おらが育成論」があまりにまかり通り過ぎている世界である。育成はどの世界にも存在し、自分も被育成体験を持っているため、自分の経験に照らしあわせて「こういうタイプは化けるんだ」というような認識のもとに勝手な指導・育成が行われる。それで育たなかった人のことは記憶の彼方に消し去り、成功したケースだけが記憶に残るのでますます「おらが育成論」が独り歩きする、という構図である。

これで本当にいいのだろうか。うまく育成された人は良いだろうが、その影でその何十倍も「育成されなかった」人がいるのではないだろうか。

もちろん、「育成してほしい」というのは本人の甘えで、本書でも語られている通り結局は本人が自主性をもって取り組まなければ成長が起こるはずもない。

しかし、幼年期や少年期、新入社員など、多くの人が「育成される」時期があり、そこで論拠のない育成論をあてがわれた人はたまったものでない。

手段や方法に絶対はないが、ベースのところでは適用して間違いのないメソドロジー、もしくは体系化された育成が存在するというのが僕の考えである。

例えば、「引き出し方」については、大きく分けてポジティブアプローチ(簡単に言えば、長所を伸ばす、内発的動機づけに期待する、など)とギャップアプローチ(簡単に言えば、足りないところを指摘する、課題を見つけるのを手伝う、など)が存在している、という体系化でも良い。ケースだけの留めず、抽象化することが肝要である。

メソドロジーは小澤氏の言うとおりケースから普遍性を抽出して紡ぎ出していくものなのであるが、僕も含めて大抵の人は残念ながらこの作業が得意でない。背景や環境、当人の適性などを考えずにケースから見える氷山の一角の出来事をマネして適用するのである。マネしやすいからケースが喜ばれるのであって、ケースは普遍性を抽出する宝だから喜ばれるわけではない。

なので、育成論を振りかざす場合は、ケースだけでなく、小澤氏の言葉を借りればケースを「普遍化」した結果を体系的に示すべきだと僕は思っている。

育成にも科学が存在する、それを語れる人は積極的に語るべき

小澤氏はサッカーにおける育成論は人材においても適用できると考えており、デットマール・クラマー氏へ以下の様な質問も投げかけている。

選手育成の方法を、企業や経済界における人材育成に転用することは可能だと思われますか?もしそうでしたら、どのような形で転用が可能でしょうか?(P.208から引用)

育成にも科学が存在する。小澤氏は当然それに気づいた上であえて語らずに読者に考えることを促しているであろうが、僕としては科学性に言及した上でメソッドについてはケースから学んでください、という構成の方がすっと腹落ちする。

前述したように多くの人はケースのマネをしてしまう。それで失敗を重ねながら自分なりの育成論・指導論を積み上げていくという考えもあるが、ではその犠牲になった被育成者はどうなるのか。サッカーの試合ならば失敗してもやり直せるが、長い目で見た育成において「失敗」などと軽々しく言っていいものでは思う。だからこそ、科学を語れる人がしっかりと科学を語り、その上でケースを参考にしてください、というのが「育成」を語る人の役割ではないかと、偉そうなことを思うのである。小澤氏に期待をしているからこその、ひとつの意見。



tags サッカー日本代表の育て方, メソドロジー, 小澤一郎


ウィットに富んだ表現で読者をひきつける数少ないサッカー記者のコラム集。

初めて武智幸徳さんを知ったのは日経新聞のコラムだったように記憶している。試合で起こった現象をその場限りの一過性のものとせず、歴史や国民性などまで含めたストーリーとして切り取り、さらにそれをユーモラスに表現していることに衝撃を受けた。それ以来武智幸徳さんのファンとなり、これまで上梓された『サッカーという至福』と『サッカー依存症』も読ませていただいた。特に『サッカーという至福』は今のようにサッカー本が少ない時代(1999年)に刊行されたものでとても重宝したことを覚えている。

そんな武智幸徳さんがサッカーマガジンで連載していたコラムが500回を数えた記念として、編集部で79回をセレクトして書籍の形で世にお目見えしたのが本書である。

東野圭吾的ではなく、伊坂幸太郎的

武智さんの優れているところは、ピッチを見る目や切り口もさることながら、その表現力にあると僕は思っている。

サッカージャーナリストの多くは失礼を承知で言えば、表現自体はそこまで巧くない人もいる。彼ら彼女らはそれを補って余りある「サッカーを見る眼」で読者をひきつけている。

一方で武智さんは修辞技法や比喩の活用など、とにかく表現が巧い。もちろん、サッカーを見る眼もある。邪推だが、他の記者と同じような表現になることを避けているフシもある。

恐れ多くも売れっ子小説家を例えにするのであれば、前者の多くのサッカージャーナリストは東野圭吾的で、武智さんは伊坂幸太郎的だ、という気がする。

ロジカルにストーリーを展開しスッキリとした結末に収斂させていく小説を描くのが巧いのが東野圭吾さんで、ストーリーを意識しつつも1つ1つの文章や単語の表現がユーモラスであることも同時に大事にしているのが伊坂幸太郎さん(だと僕は思っている)。

どちらも到底マネのできるレベルではないが、仮にどちらのほうがマネしやすいかと聞かれたら、多くの人が東野圭吾さんと答えるのではないだろうか。それは、ユーモラスな表現をすることには発想の泉がないと難しいが、ストーリーをロジカルにすることは練習すればできそう(大層なことを言ってすみません)な気がするからである。

武智さんの魅力は、仮に武智さんと同等レベルのサッカーを見る眼があったとしても到底追いつけないような独特の言い回しができることであり、これはサッカー界では稀有な存在であると僕は認識している。

だからこそ武智さんが惹かれるオシム節

そんな武智さんはオシムさんに相当惹かれていたようだ。ご自身がユーモラスな表現力の持ち主であるため、おそらく監督の言葉などに物足りなさを感じたことは数多あることだろう。そこに登場したイビチャ・オシムという異才の持ち主。

2003年4月2日掲載のコラム「厳父のユーモア」でも以下のように語っている。

監督の能力を見ぬくことは至難の業で、世界中のありとあらゆるクラブが監督選びに失敗している。監督選びを生業とする人たちでそうなのだから、オシム監督が成功するかどうかなど私に分かるわけがない。しかし、何だか愉快な人であることはハッキリしている。妙にこの人に、ひきつけられてしまうのだ。
3月15日のナビスコカップ、市原ーC大阪戦でのこと。Jリーグでは、ハーフタイムに両チームの監督が選手にどんな話をしたか、後半が始まるころにプレスリリースが回ってくる。この試合で配られた紙を見て、思わず微苦笑を誘われた。そこにはオシム監督の話として「私の長い経験からいって、このままチャンスを失い続けると負ける」と書いてあった。
Jリーグが発足して11年目を迎えたが、ハーフタイム・コメントで、こういうものを見たのは初めてである。試合は本当に市原が1−2で逆転負けした。(P.14から引用)

煮ても食えないようなオシムさんのコメントの数々。武智さんはほくそ笑みながらその1つ1つを噛み締めていたのではないだろうか。79回に厳選されたコラムでもオシムさんは何度か登場するくらいだから、500回でいえば相当数登場しているのかもしれない。

本書を読んで、残りの421回およびそれ以降も読みたくなる

毎週コラムを書き続けそれを500週間も続けるとはとんでもない偉業だと感じるわけだが、それを謙遜して表現している「はじめに」の武智さんの言葉もまたいい。

これだけ長く続けられたのは本人の努力、節制の賜物では一切なく、しみじみ思うのはサッカーというゲームの素晴らしさです。サッカーには一つとして同じゲームがない。毎試合、何かしら違っているから、書く内容を無理をしなくても、何かしら違ったものになる。サッカーのそういう奥深さにどれだけ救われてきたか知れません。(P.3から引用)

本書は79回分のコラムを以下の4部で構成している。

  1. Jのある風景
  2. 代表となでしこ
  3. ハーフタイム
  4. 海外を愉しむ

Jリーグも、代表も、海外も、サッカーを取り巻くエトセトラも、すべて武智さんらしさが出ていて読み応えがある。かといって1つのコラムは3ページ程度なのでしつこくなく、さらっと読むことができる。

これが毎週読めるなんて、サッカーマガジン、やるなぁ。ちょっと買ってみたくなりました。



tags ピッチのそら耳, 武智幸徳

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プロフィール

profile_yohei22 yohei22です。背番号22番が好きです。日本代表でいえば中澤佑二から吉田麻也の系譜。僕自身も学生時代はCBでした。 サッカーやフットサルをプレーする傍ら、ゆるく現地観戦も。W杯はフランスから連続現地観戦。アーセナルファン。
サッカー書籍の紹介やコラム、海外現地観戦情報をお届けします。

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