ご存知の通り日本は2014ブラジルW杯でグループリーグ敗退。1分2敗の勝ち点1、得点2に対し失点6という数値は「惨敗」という表現を使って異論ない結果だろう。

これでザッケローニ体制の4年間のプロジェクトは幕を閉じた。筆者は日本のグループリーグ3試合をすべて現地で観戦し、少なからずショックを受け帰国の途についた。ただ、コロンビア戦の敗退から2週間が経ち、時間という薬が少しずつ敗戦のショックを和らげてくれていることを実感しつつある。この4年間の総括をして次につなげようという巷の流れに徐々に乗っかっていこうと思う。

IMG_1825.jpg 2014年6月24日 日本VSコロンビア@アレーナ・パンタナールにて試合終了後筆者撮影

自分たちのサッカーという曖昧さ

どうやら日本サッカーを取り巻く空気は「自分たちのサッカー」なんて糞食らえ、のようである。日本が基準としているプレーモデルについて具体的な言葉を使わず、「自分たちのサッカー」という曖昧な表現が席巻していたため、「何それおいしいの?」という揶揄に火がついたようだ。

そこで筆者なりに「自分たちのサッカー」とは世間的にどのように理解されていたのかの整理を試みたい。そのためにはサッカーという競技における次の特性を踏まえる必要がある。

サッカーには、ボールを保持している攻撃の状態、ボールを保持していない守備の状態、その移り変わりの瞬間であるトランジションの状態の3つの状態が存在し、それぞれが排他的な状態として成立している。また、トランジションについてはボールを奪った瞬間のポジティブ・トランジション(ポジトラ)、ボールを失った瞬間のネガティブ・トランジション(ネガトラ)に分けられる。

現代サッカーにおいては、トランジションを活用する/活用させないことが試合の鍵を握っている。このあたりは『アンチェロッティの戦術ノート』が詳しいので引用しておく。

サッカーにおいて、攻撃と守備という2つの局面は、例えばアメリカン・フットボールや野球のようにはっきりと区切られているわけではなく、常に入れ替わりながらゲームが進んでいく。そして、プレーの展開が最も不安定になり、コントロールを失いやすいのは、まさにこの2つが切り替わった瞬間である。

組織的な守備が発達し、一旦相手が守備陣形を固めてしまうとなかなかそれを崩すことが難しくなる現代サッカーでは、攻守が入れ替わる一瞬に生まれる「戦術的空白」を攻撃側がどれだけ活かせるか、そして守備側がいかにそれに対応するかが、非常に大きなテーマになっている。

近年の戦術をめぐる議論では、この攻守が切り替わる瞬間に焦点を絞って、移行、転換といった意味を持つトランジション(イタリア語ではトランジツィオーネtransizione)という用語が使われるようになっている。(P.65-66から引用)

さて、ここで「自分たちのサッカー」である。

日本が「自分たちのサッカー」というとき、これはボールを保持している攻撃の状態(ポゼッション時)における振る舞い方を指している。試合の多くの時間においてボールをポゼッションし、その状態において相手を揺さぶりながらときにリスクをおかすプレーを選択し相手の陣形を崩して得点を目指す、そういった一連のプレーを指していると思われる。

コンフェデのイタリア戦は敗戦であったものの、「自分たちのサッカー」ができていたという意見は大勢を占めるはずである。ではイタリア戦で「自分たちのサッカー」が体現できていたのはどのようなプレーから想起されるかと問われれば、試合終盤に圧倒的にボールを支配してイタリアを押し込んでいたときだろう。

ここでミソとなるのは、非ポゼッション時やトランジション時の振る舞いは「自分たちのサッカー」には含まれていないということである。

つまり、ポゼッションができないと「自分たちのサッカー」は発動できない。

そのため、日本は必然的に強豪や格上相手にポゼッションで上回られると、「自分たちのサッカー」をしていない、あたかも戦う気持ちすら失ったように見えてしまうのである。

コスタリカのサッカーは非ポゼッションとポジトラにあり

翻ってコスタリカである。死のグループと呼ばれたグループDにおいてイングランドとイタリアを差し置いて決勝トーナメント進出。それも1位抜けである。決勝トーナメント1回戦ではレシフェの地にてギリシャとPK戦を演じ、見事にベスト8進出。大会前の親善試合で3-1で勝利を収めた相手ということを考えれば、何ともやりきれない気持ちになる。

そのコスタリカはベスト8でオランダと対戦し、死闘の末に0-0のPK戦にまで持ち込むことに成功。PK戦ではファン・ハールの「PK戦要員GKクルル」の奇策の前に惜しくも敗れたが、その健闘に世界中から拍手喝采であったことは記憶に新しい。

さて、コスタリカはなぜここまでの「名誉」を手にすることができたのだろうか。

その理由は、コスタリカの「自分たちのサッカー」にある。

コスタリカのサッカーは、相手にポゼッションさせ、それを巧みなラインコントロールと5バックによって固めたブロックで守りきり、あわよくばカウンター(ポジトラ)で得点を取るということを目指している。

つまりコスタリカは相手が強ければ強いほど、同時に「自分たちのサッカー」を発動できるのである。「自分たちのサッカー」によってオランダ相手に幾度のピンチを凌ぎ切り、最後はPK戦にまで持ち込むことができた。当然「出しきった」と見えるし、健闘の末に敗れた勇気ある敗者と映ることだろう。

なにも筆者はコスタリカのサッカーを否定しているわけではない。5バックでラインコントロールをすることや、いくら引いて守っているとはいえ競合相手に少ない失点でおさえることが難しいことは知っている。ただ、日本とは目指す試合運びが大きく異なっていたということは間違いない。

我々はこの4年間、守り切って勝つサッカーを志向してきたのか

断じて違うだろう。

4年前の南アフリカではアウェーのW杯における初勝利や初のグループリーグ突破といった経験をすることができた。しかしそのプレーモデルは必ずしも我々が期待するようなものではなかった。

では南アフリカを受けてこの4年間我々はどのように過ごしてきたのか。ザッケローニの選択はいわゆる現在の我々の共通認識である「自分たちのサッカー」をするという我々が歓迎する内容であった。それを我々は幸福な4年間として享受してきたはずである。その証左として、この4年間でアジアカップを制し、東アジアカップを制し、韓国には一度も負けていない。こんな素晴らしい4年間がこれまでにあっただろうか。

コスタリカは確かに素晴らしかった。そこに異論はない。ただ、コスタリカの姿を見て「素晴らしい去り方」と捉え て日本も見習うべき、という論調には筆者は同意できない。

これからの4年間を過ごすにあたって

これまで通りの「自分たちのサッカー」は貫いてほしいとともに、もはや世界のサッカーは「なんでもできないとダメ」の様相を呈している。当然、ポゼッションが思うようにいかないときもあるだろう。そんなときに、トランジションを活用するサッカーができるか。次の4年間で追求していくべきひとつのテーマであろうと思う。

また、ポゼッションを志向するプレーモデルの選択は、アジアという特性も少なからず影響している。日本はアジアでは無双を誇っており、必然的にポゼッションする時間が多くなる。ドン引きしてくる相手に勝つために、日本はある程度ポゼッション志向のサッカーを少なくともアジアでは展開する必要がある。

このアジアという地理的特性を、我々は歓迎すべきであるし、おおいに活用すべきである。

コスタリカやギリシャなどがなぜポゼッション志向ではないのか。それは、W杯予選にひしめく強豪たちとの激戦を勝ち抜くために、ポゼッション志向を選択する余裕がないためである。予選を勝ち抜くための知恵として、長いことをかけて国民にも刷り込まれていったプレーモデルが引いて守ってカウンターというサッカーなのである。

日本は、少なくとも現時点では、プレーモデルを選択することができるという幸運に恵まれている。

J2でプレーモデルを確立してJ1昇格1年目で優勝した柏や広島のように、我々にはポゼッションを公式戦を通じて確立する時間が与えられている。これを活かさない手はない。

まだ次なる監督は定まっていないが、また4年間楽しい冒険をさせてくれる監督であることを切に願う。ロシアの地で「自分たちのサッカー」で歓喜をあげられるように。



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