10年以上経った今も色褪せない言霊のノンフィクション。
Kindle化を契機に十数年ぶりに再読。思えばかつてはサッカーに関する書籍など数えるほどしか存在せず、サッカー書籍そのものが発売するのを心待ちにするしかなかった。それが優れているかどうかなど、こちらには選択の余地すらなかった。今は逆にサッカー書籍バブルで玉石混交。だからこそこうやって書評ブログを書く気になったということなんだけれど。
本書はアトランタオリンピックに臨んだサッカーのオリンピック代表の「マイアミの奇跡」と、その歓喜に隠され表沙汰になることのなかったチーム内の不協和音と亀裂を綿密な取材によって明らかにしたノンフィクションである。決勝トーナメンに進めなかったとはいえ、日本はあのブラジルに勝利(当時は勝利など考えることすらできなかった!)し、ハンガリーにも勝利し、グループで2勝1敗という期待をはるかに上回る成績を残した。勝利はこぞって讃えられ、メディアも大騒ぎでヒーローとして彼らを迎え入れた。しかし。その裏側ではチーム内の不協和音は修復不可能なものにまで発展し、チームワークどころではなかったのである。ブラジルへの勝利を「チームワークの勝利」「一丸となって戦い続けた」という言葉で飾られるにはあまりに杜撰な内部事情。不協和音はなぜ発生したのか。中田英寿はなぜ第2戦のナイジェリア戦の前半を最後に使われなかったのか。
おそらく本書のようなチームドキュメンタリーは今後一切日本サッカー界に登場しないであろう。その理由を僕は以下のように考える。
- 現在ではサッカーを追いかけるジャーナリストが多すぎて、1人でここまで独占的にインタビューできる環境にはなく、また今後一切訪れない。
- 今でも日本のメディアは未熟だが、それでもサッカー専門のジャーナリストが増え、サッカー専門のメディアが増え、インターネットが発達し、受け取る側のリテラシーも発達した。本書は総じて未熟だったメディアと情報の非対称性による時代のひずみから生まれたものである。
- 日本サッカーは強くなった。世界を経験することが当たり前の時代になった。不協和音の一因である「海外を恐れない世代」と「海外と対峙することが初めての世代」が混在することは今後訪れない。
だからこそ、今読んでも手に汗握る内容となっている。現在であれば、不協和音があればすぐにネットでそのことが伝わって、後にまとまったノンフィクションという形で目にすることは、良くも悪くもありえない。
金子達仁氏は、本書に前園のインタビューを加えなかったことを後悔しているようだ。口は悪いが根は真面目で、魂を注ぎ込めなかったことに後悔できるような、仕事に忠実で熱心なお方なのだと思う。わざわざ日本の得点の「きっかけ」を創りだしてしまったアウダイールにまで取材しているくらいなのだから。
氏のジャーナリストとしての主張はこの発言に集約されている。
勝った経験のない者は、本当の意味での苦境に追い込まれた時、自分たちは勝てる、と信じることができない。
勝ったことがある、という経験が大事なのだ。氏はなでしこがW杯を制した際に特別寄稿をNumberに寄せており、その快挙を空前絶後とした上で次のようなことを書いていたと記憶している。バレーボール界の東洋の魔女の金メダルの経験がその後に男子バレーにも金メダルをもたらしたことに少なからず影響していたのではないかと。であれば、なでしこの経験は男子サッカーにも波及するのではないか、と。
まったくの同意である。だからこそ、金子達仁氏には南アフリカワールドカップでの日本について「負けろ、日本。未来のために」などと言ってほしくなかったし、カメルーン戦での勝利に対して「こんなに悲しい勝利はない」という発言も言ってほしくなかった。もちろん、日本は既に勝つだけで満足するステージにはないという意味も含まれていたことと思うが、それでも僕は「本番で勝つ」以上の意味は存在し得ないと思っている。天邪鬼だから、こういう表現になってしまうのかもしれないけれど。
本書が脚光を浴びたおかげで、スポーツライティングというジャンルへの世間の見方も変わったことは間違いない。時代の先駆者には、最大限の賛辞を。それは三浦知良や中田英寿が成し遂げたことと同じくらいすごいことだと僕は思うから。
tags 28年目のハーフタイム, アトランタオリンピック, マイアミの奇跡, 中田英寿, 金子達仁
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